ガレリア フィナルテ(名古屋) 2020年9月29日~ 10月17日
中上清展 ガレリア フィナルテ
中上清さんは1949年、静岡県生まれ。闇とそこからにじむ原初的な光、世界の始まりのような幽玄で静謐な空間を描いてきた画家である。深遠な空間から湧き起こる光、どこから来ているか分からないが確かに存在する光—。
パリやニューデリー、ソウルなど国際的な舞台でも作品を発表。ガレリア・フィナルテでは、2015年、2017年に続く個展である。
初期には、幾何学的な形による錯視的な作品を制作。金箔張りの屏風のような作品などを経て、1990年代末に光と闇の空間を描くようになった。
芸術と宗教。そんな言葉を想起させる作品である。どれほど世の中が変わっても、人間から芸術と宗教がなくなることはないだろう。
中上さんの作品が宗教的だと言いたいわけではない。
芸術としての闇と光の空間。幻覚でなく、神の啓示でもない。宗教的な背景ではなく、絵画的なイリュージョンとして、「宗教」をも思い起こさせる、闇と光の原初的な空間を描くこと。
この作品を見て良かった。素直にそう思えた。
絵画を見ているのに、その空間、遍く宇宙に満ちるものに包まれ、自分の存在、亡くなった両親のこと、家族のこと、日常のこと、周囲の人々や世界のこと・・・さまざまなことに思いが連鎖していく。
宗教、国、民族といった分節された世界、日常を超えた宇宙への希求なのかもしれない。共同体的、社会的なものとしてというより、人間的な世界を超えた形象ならざる形象、神秘的な絵画空間といえばいいだろうか。
人間にとっての宗教では、偶像、形象が生まれ、それに霊威が仮託されることで、宗教を基盤とした美術が存在した。
中上さんの作品は、まぎれもなく現代の純粋芸術としての絵画だが、どうしても世界や存在の神秘、不思議さを感じてしまう。
人間が存在することの不思議、在ること自体が神秘的な世界を感じる何かが、ここにある。在ることの不思議さ。このことを考え、制作した美術家は過去にも多くいたとは思う。
中上さんは、岸田劉生、あるいはウィトゲンシュタインに共感しているようだ。「在るということの不思議さを描ければ」と中上さんは言った。
神秘的な空間、光と闇の表現、研ぎ澄まされた画面の肌理に引き込まれる。
中上さんの絵画は、とても精妙に抑制され、自己表出的ではない。以前は、絵画を形式主義的にも追究していたようだが、今回のシリーズに至っては、それは感じない。形象へと舵を切りつつ、形象ならざる形象、まさに不思議な空間が描かれている。
この絵画空間は、作品がそれほど大きくないにもかかわらず、実際の画廊空間に流れ出すように広がる錯覚さえ覚える。
闇、そして、襞が無限に重なり合ったような形象らしからぬ予兆、その奥からしみだしてくる恩寵のような光。
重なり合う無限の襞は、雲のようにも水のようにも、あるいは、山、人間の姿のようにも見えるが、それは、筆者がそう想像したからにすぎない。
絵画を見るとき、そこに形象、具象性あるいは抽象性、いわば、言葉で説明できる何かを見ようとするからである。
本当のところは、大いなる流れ、うつろい、闇の中の光、何かが生まれる形象の予兆、逆光の中に生起する生命の萌芽、浮かび上がる存在のきざしとしか言いようがない。
世界を世界たらしめる、形あるものを形たらしめる、生命あるものを生命たらしめる、本当は見えないであろう、大いなる力。
中上さんが挙げたウィトゲンシュタインは、「論理哲学論考」で、「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」と言っている。
中上さんは、世界があるということの神秘、存在することの不思議さを描こうと描き続けているのかもしれない。
言葉、論理を超え、認識できないものがあることを、当の言葉、論理によって知ってしまった、その神秘、在ることの不思議。
中上さんは、表象しえないもの、ウィトゲンシュタインが「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と語る、世界が存在する不思議さを描ければ・・・と描き続けている。