茂登山清文さんの功績をたどる
名古屋大学でのアート活動を振り返り、今後に生かそうと、資料展示「名古屋大学のアート 1998-2003」が2023年6月26日〜7月1日、名古屋大教養教育院プロジェクトギャラリー「clas」で開催された。
最終日の7月1日には、元同大非常勤講師で、現代アートイベント「ストリーミング・ヘリテージ」のプログラム・ディレクターなどを務めた江坂恵里子さんと、今回の取り組みの中心人物である同大准教授の秋庭史典さんによるトークイベントが開催された。
今後も開催予定で、1回目となる今回は、主に1990年代、名古屋芸術大学の教員として、名古屋でさまざまなアート活動に関わった茂登山清文さん(1951-2022年)が名古屋大教授になって、名大での芸術教育をスタートさせた1998年を起点に、本格的な芸術教育科目が始まる2003年までを取り上げている。
茂登山さんは2022年に病気で亡くなったが、今回は、1998-2003年を主な対象期間としながらも、 茂登山さんの名古屋芸大での教員時代の1980年代後半を含め1990年代全般の活動にも光を当てている。
展示資料やトークイベントから分かるのは、茂登山さんによる、名古屋での多様な場所づくりが人づくりとなり、それによって、ネットワークと異ジャンルの融合が起き、複数の大学も巻き込みながら、名古屋のアート活動が面展開したということである。
そして、そのプロセスはまた、さまざまな問題提起ともなっているのである。
1990年代は、筆者が新聞記者として美術を担当していた時期と重なり、今回、紹介された展覧会の多くを筆者は同時代的に見ている。
江坂恵里子さん(左)と秋庭史典さん
1990年代の名古屋の現代美術史を照射する
1990年代、茂登山さんは名古屋の現代美術の分野で最もアクティブに動いている1人だった。それゆえ、今回の展示は、「1990年代の名古屋の現代美術史」、「1990年代名古屋のメディアアート史」、あるいは「名古屋という都市とアート」「名古屋港と現代美術」という切り口をも含んでいる。
それは、現在では、「あいちトリエンナーレ」「国際芸術祭あいち」に集約されることによって埋もれてしまった(消えてしまった)、もう1つの名古屋の現代美術史を1980-1990年代を中心に再措定することにもなるのだ。
茂登山さんは1990年代から、名古屋港を南端として、堀川や新堀川、中川運河など、北から流れる水辺空間の南北軸を、名古屋の都市と文化芸術の関係で重視していた。
主に、2000年代以降に名古屋に来た美術関係者には想像しにくいと思うが、名古屋の1990年代の現代美術は、「名古屋港の時代」ともいえるのである。
当時、名古屋港ガ-デン埠頭ジェティ・イ-ストにあったコオジオグラギャラリーや「現代美術館・名古屋」、ガ-デン埠頭の東エリアの倉庫群(2005-2008年に名古屋港イタリア村があった付近)でのさまざまなアート活動は、1990年代の名古屋のアートを語る上で欠かすことができない。
こうした遺産は、名古屋都市センターが2013年度から取り組む中川運河再生文化芸術活動助成事業「中川運河助成ARToC10」、2021年と2022年に名古屋の堀川沿いなどで開かれた現代美術展「ストリーミング・ヘリテージ」など現代の動きに引き継がれている。
また、Minatomachi Art Table, Nagoya [MAT, Nagoya]の活動や、港まちを舞台にしたアートと音楽のフェスティバル「アッセンブリッジ・ナゴヤ 」にもつながっている。
そして、1990年代は、名古屋の多くの芸術系大学や、1990年代以降に新たに設立された名古屋市立大学芸術工学部(1996年)、情報科学芸術大学院大学[IAMAS](2001年)、名古屋学芸大学(2002年)などの学生らも巻き込まれることによって、さらなる広がりを生みだしていった。
アーテック、メディアセレクト、ISEAとその広がり
今回展示されたのは、茂登山さんが書いた新聞や雑誌の記事、各種論考などの文献資料、名大の学生らも関わった名古屋港ガーデン埠頭倉庫群での各種アートイベントの資料、メディア・アートの国際会議「電子芸術国際会議2002名古屋(ISEA)」の関連資料などである。
この中には、名古屋での1989年の世界デザイン博覧会をきっかけに、1989年-1997年に名古屋で開催されたメディアアートの国際展「名古屋国際ビエンナーレ・アーテック」(ARTEC)、1999-2003年の名古屋港アートポート、1999年から名古屋港の倉庫群で展開された展覧会「メディアセレクト」、そして、電子芸術国際会議2002名古屋(ISEA)など、1990年代から2000年代初め頃の名古屋の重要なアート展や、関連するアートの状況が含まれる。
また、1987年に当時のICA Nagoyaで、茂登山さんの企画で開催された「現代美術の世界像(コスモロジー)」展のカタログ資料もあったので、その前史も含むといってもいいかもしれない。これは、茂登山さんが名古屋で関わった最初期のアート事業である。
そのほかにも、世界都市産業会議に合わせて開催された1994年の「linear-n」、「岩倉 音のアート」(1996-97年)などの事業や、1980年代後半から1990年代にかけ、茂登山さんが編集人の1人として関わった地元の現代美術雑誌「裸眼」や「Lady’s Slipper」(これらは筆者らが芸術批評誌「REAR」を始める前の活動で、1990年代以前の名古屋の重要な美術史を記録している)など、多様な資料が展示された。
また、1990年代は、茂登山さんが関わった活動が、名古屋エリア各所でアーティスト・ラン・スペースの運営を始めた若い作家の動きとリンクしていることも重要である。愛知県江南市の「art house七福邸」(「+Gallery」〔プラスギャラリー〕)、春日井市の「N-mark」、西春町(当時)のdot、犬山市のアートドラッグセンター(キワマリ荘)が勃興したのも、1990年代から2000年代初めにかけてである。
こうした動きの多くは、1990年代に美術担当の記者をしていた筆者が足繁く通い、取材したものがほとんどである。
中でも、メディアセレクトは、1997年に5回目で終わったアーテックの後継展覧会で、メディア・アートの作家を紹介しようと、会場を変えながら、2010年まで精力的に続けられた重要な試みである。
また、アーテックは、新聞社での地方勤務を終えて1990年代半ばに名古屋に戻ってきた筆者にとって、とても意義あるものだった。とりわけ、5回目のアーテック(1997年)は、名古屋市美術館で、当時、世界的に注目株だったカナダの作家、スタン・ダグラスが出品していたことが強く印象に残っている。
その映像作品「デル・ザントマン(砂男)」は、旧東独の都市住民に配分されていた菜園を再現した映画セットと、都市化の浸食を受けた1997年当時の菜園の映画セットをつくり、それぞれを同じアングル、動きで撮影した映像をスクリーン上で左右半分ずつ合成した知的な作品だった。作品のベースには、フロイトが『不気味なもの』の中で抑圧について言及した際に、分析の対象としたホフマンの「砂男」がある。菜園の映画セット自体が現実の再現でありながら、同時に虚構であり、それが東独時代とドイツ統一後とを往還しながら、不気味なイメージとして立ち現れてくるのである。
このように、今回の取り組みは、1990年代の名古屋のアートの記憶と結びついた、とても意義のある資料展示であった。なお、2004年以降も、第2回の展示として発表する予定である。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)