「なごや寺町アートプロジェクト」が2019年9月22〜28日、名古屋市中区橘の崇覚寺と日置神社で開かれている。
プロジェクトは2017年、名古屋造形大学の50周年記念事業として始まり、今年で3回目。同大学出身者を中心としたアーティストらの作品で構成される、まちなかアート展である。
今年は、名古屋芸大から名古屋造形大に移った高橋綾子さんが企画者になった。テーマは、「菓子」と「可視」。
名古屋造形大の草創期の教授だった彫刻家の野水信さん(1914〜1984年)が、前衛写真家で青柳総本家の四代目社長だった後藤敬一郎さん(1918〜2004年)との交友から、1950〜60年代、「羊かん彫刻」に取り組んだという「美術史」の検証と、現在の美術家たちによる「再現」を試みたユニークな内容になった。
期間中は、寺社の空間を生かした展示と多彩なトーク、イベントもある。
展示会場にあったパネルなどによると、野水さんが彫刻素材として、羊かんに出合ったのは1952(昭和27)年である。
この年の4月、戦前から前衛写真家として活動していた青柳総本家の後藤敬一郎社長が、名古屋の広小路にあった店舗内に「青柳ギャラリー」を開設。当時、新東海新聞の記者だった版画家の野村博さんが企画を担当した。
その中で、後藤さんの「菓子素材でなにか面白い造形美を表現したい」という念願が実現し、52年12月から1月にかけ、同ギャラリーで「お菓子による作品展」が開かれた。
青柳総本家の瑞穂工場には、柳宗理さんや野水さんをはじめ、後藤さんと交友のある15人の文化人が集った。当時の文化人の酔狂な遊び心とともに、野水さんの素材への探究心が窺われる。
この時、一斗缶で固められた羊かんを彫り出した作品「人間」が作られ、翌53年、ブロンズに鋳造されたことから、美術の文脈で羊かん彫刻が後世に伝わることになった。
ブロンズ像は、青柳総本家と野水家に2点の存在が確認されている。原型も野水さんの写真ファイルから見つけることができた。
戦後の彫刻で、素材の多様化、形態の抽象化が進む中、この作品も成立しうるとして、ブロンズに残そうという判断が働いたとみられる。野水さんの写真ファイルには、制作年不詳の他の羊かん彫刻もあった。
また、53年には、青柳ギャラリーで、野水さんや、版画のサブリ・テツさん、油彩の石黒二郎さん、書の萩原冬珉さん、そして後藤さんの5人で、「朱泉会」が始まった。
途中、会員の入れ替えがあったが、野水さんが亡くなった84年まで続き、翌年、解散となった。
61年、愛知県庁前広場で開かれた「第15回全国菓子博覧会」に、59年に創業80周年を迎えた青柳総本家も出品。地元での開催に意気込み、社長の後藤敬一郎さんと交友が深い野水さんが300キロ近い巨大羊かん彫刻を並べた。
61年の全国菓子博覧会に続いて、翌年の第5回中日本和菓子展でも「羊かん彫刻」を出展。この時は、インドの童話「うさぎとぞうの物語」にちなみ、高さ60センチの「象」をメインに兎、背景の池、草花をしつらえた情景彫刻だった。重さ300キロで、羊かん800本を使った。
新たな羊かん彫刻は、日置神社の建物内に展示。家業が和菓子店の経験から、「羊かん舟」と呼ばれるバットから取り出した羊かんの底面が、つるつるの鏡面のようになっていることを知っていた西倉潔さんは、そこに吉岡実さんの詩集「静物」を白とベージュの文字で転写した。
小林亮介さんは、幼いとき、羊かんを食べると、歯型が付き、歯並びの悪さに愕然としたことから、自分の歯型で彫刻削り器を作り、四角柱から削って塔のような造形物を制作した。
高橋伸行さんの作品は、青柳総本家のコレクションにあるアフリカ彫刻を意識している。
佐藤克久さんは、羊かんという素材固有のメディウム性、自律性を探求すべく、最低限の加工で立つ造形を考えた。
平林薫さんは、自身がテーマとしてきた文字を題材に「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」を制作。グラフィックデザインの伊藤豊嗣さんは、トルソで艶かしさを追求した。渡辺英司さんは、構築するというより羊かんを崩すようにして、餡子(あんこ)からのシャレで、魚のアンコウの親子を作った。
同じ会場には、野水信さん、野村博さん、後藤敬一郎さんの作品も展示。また、久野利博さんは、日置神社と崇覚寺の境内にインスタレーションを展開。
崇覚寺では、庭の通路に、陶器の中の米、鉄製お玉の火山灰などを伴ったベンチを配置し、空間に身体的リズムを刻むとともに日本人と自然、環境の関係を意識させ、山田亘さんは、後藤敬一郎さんとの関わりからシュルレアリスム写真家の山本悍右さん(1914〜1987年)をも射程にユーモラスなインスタレーションを設置。
原田愛子さんは、明治時代の一時期に流行した「横浜寫眞」をよみがえらせた「名古屋寫眞」を展示した。