2019年6月1日〜7月15日に愛知県岡崎市のおかざき世界子ども美術博物館で開かれた「没後100年 岡崎が生んだ天才 村山槐多展 衝撃の新発見、約100点を一挙初公開!!」は、多くの観客を集めて閉幕した。継続的に村山槐多(1896〜1919年)を調査研究してきた学芸員で副館長代行の村松和明さんによる講演会「村山槐多帰郷102年目の日記念『村山槐多、天才の秘密—衝撃の新発見とその実像』が6月23日に開かれ、定員70人を100人も上回る170人ほどが押し寄せた。この日、NHK「日曜美術館」で「火だるま槐多〜村山槐多の絵と詩〜」が放映された影響もあったようだ。村松さんは、予定を大幅に上回る2時間15時間にわたり、槐多の生涯を紹介。人間に平等に降り注ぐ陽光が槐多にとってかけがえのないものだったと結論づけた。
22歳で早世し、油彩画が27点しか確認されていなかった槐多。没後100年の今回、未公表の油彩10点を含む130点ほどの新発見作品が、全国の美術館が所蔵する代表作とともに展示された。10代に描かれた純粋で才気あふれる作品、繊細な美しさを滲ませる秀作が多く含まれる。新発見の作品は、4歳で京都に移った槐多の母校、旧制京都府立一中(現在の洛北高校)の同級生の家などに保管されていた。油彩画「雲湧く山」(1911年)は、上京前の14歳の頃、いとこの画家山本鼎から油彩道具を贈られ描いた作品という。村松さんは、これまでの調査研究で分かった最新の成果を基に、岡崎市出身の槐多が短い生涯をどのように生き、数々の素晴らしい作品を残したかを世界的視野と地元からの視点の両面から語り、訪れたファンを楽しませた。
村松さんは、槐多が生きた明治時代末〜大正時代と同時代の欧州の美術の動向をピカソ、シャガール、モディリアニ、藤田嗣治などを挙げながら紹介。シュールレアリズムやエコール・ド・パリの時代を活写した後、児島虎次郎、山本鼎、村山槐多の3人への説明へと移り、ルノワール、モネ、セザンヌなど同時代の欧州の画家たちと日本との関わり、影響関係についても触れた。
山本鼎(1882〜1946年)は、槐多の出生地とも近い今の岡崎市花崗町生まれ。村松さんは、パリ留学、版画芸術の独自性を求めた創作版画運動、児童自由画運動、農民美術の提唱など幅広い活動を紹介した。村松さんによると、山本鼎は留学前の28歳の時、まだ14歳だった槐多に京都で会い、作品に驚愕。画家になるよう勧め、油彩画の道具一式を渡した。渡仏した後も、槐多の才能を愛おしく思っていたという。
槐多は、出生時に父親が教員をしていた横浜で生まれたとされてきたが、いろいろな人が調べても記録が出てこなかった。1896年9月15日の出生届は、母たまの生まれ故郷の岡崎で出され、たまの姉の嫁ぎ先である花崗町(岡崎市)の石材商所有の借家で槐多が生まれたことが分かった。石材商の九代目嶺田久三さんはそのことを祖母や母から直接聞いていたという。この辺りの経緯は、村松さんが書いて6年前に出版した「村山槐多の謎」(講談社)に詳しく、最新版の「広辞苑」でも出生地が改訂された。
続いて、村松さんは槐多が最初に描いた油絵「雲湧く山」(1911年)や、「蔵のある風景」(1910年)、龍安寺や妙心寺など京都の寺社を訪れてはパステルや鉛筆で描いた作品など京都時代の十代の頃の創作について紹介。京都近郊の山並みを透き通るようなブルーで表現した風景画にも触れ、「槐多は対象の把握がすごい。そのものをバシッと矛盾なく描いている」と述べた。
この頃、槐多の作品に見られるクレパスのような画材は、実際はパステルで、槐多が家具などの仕上げに使われていたシュラック樹脂を加え「自家製クレパス」にしていたことも、サクラクレパス中央研究所などの調査で判明したという(クレヨンとパステルの長所を合わせたクレパスは、山本鼎の提言で槐多の死後の1925年に開発された)。
村松さんは、これまで槐多の最初期の作品と考えられてきた修学旅行時の宮島(広島)のスケッチ「鶴のいる風景」(1913年)などによって、上京前の当時は、この程度の画力だと思われてきた通説は、新発見の資料によって覆された、と強調。同時に、火だるまのイメージが強い槐多について同級生が「天真爛漫」「楽しい子」「静かめの子で成績がいい」「人柄がよく情もある」と語っていたこと、教師を辞め商人になって借金をした父親への反発が強かったこと、一級下の美少年への恋などにも言及した。
1914年、槐多は上京後、小杉未醒宅の離れに下宿。村松さんは、この頃は水彩画を多く描き、二科会第一回展に入選、そのうちの一点を横山大観が購入したエピソードなど、画壇デビューの頃について触れた。
続いて、大作「日曜の遊び」(1915年)が、1982年の発見時に槐多の作品とされながら、2年後、山本鼎の作品だとされ、再度その20年後に槐多の作品とされたという経緯を説明。86年に岡崎市が鼎の作品として「日曜の遊び」を購入した時の学芸員だった村松さんは、その後、鼎の作品であることに疑問を感じ、調査を進めた結果、筆跡や書簡、友人の柳瀬正夢の証言、描き方などから、鼎の小品を下絵に槐多が「日曜の遊び」を描いた可能性が高いと結論づけた。近視眼的になっていたこの作品は成功作とは言えず、槐多は、「セザンヌの透明は俺のものでは決してない」などと模倣と決別。自分の中から湧き出る野性的な画風に突き進むことになったという。
1915年は転機で、大作の失敗後、槐多は凄まじい勢いでデッサンを重ね、自らの造語である「アニマリズム」へと向かう。村松さんは「槐多は率直で思ったことをそのまま口にした。自分を丸裸にした」などと話しながら、この時期の新発見の作品を中心に紹介。有名な水彩画「カンナと少女」と同じ頃の油彩画で最近見つかった「カンナ」(1915年)、画家モデルのお玉さんに失恋した頃の新発見作品「植物園之景」(1916年)、槐多の誕生花を描いた「赤ダリア」(1917年)にも触れた。
晩年には、よく訪れた千葉県(房州)の風景を描いたという。村松さんは、印象派の画家、シャルル・コッテ風の「房州風景」(1917年)などを紹介。失恋や貧しさの中にあっても画家として充実しつつあった頃、槐多は結核性肺炎と診断される。村松さんは、砂浜の人物が砂に同化してくように描かれた最晩年となる新発見の油絵「鳴浜九十九里」(1918年)、遺書、槐多の純粋な苦悶、デスマスクなどにも言及した。
槐多が幸福について、第一に健康、次に天候だと考え、その後に愛やお金が来ると考えていたことにも触れた。誰にも平等に降り注ぐ美しい光(天候)こそが槐多に唯一残された幸福ではなかったのか。村松さんは、それが中学生の時から描いている眩しいばかりの透き通った初期の風景画、最後の最後まで描いた美しい大自然の光に現れていると締めくくった。