愛知県豊川市桜ヶ丘ミュージアム 2021年7月31日〜2021年8月22日
村田千秋
村田千秋さんは1949年、愛知県豊川市生まれ。現在は、隣の豊橋市を拠点に制作している。
中学校のとき、画家の近藤文雄さん、時習館高校のとき、画家の朝倉勝治さんに美術を学んだ後、京都市立芸大に進学。彫刻を辻晉堂、堀内正和の下で学んだ。
1970年代から、京都アンデパンダン展やギャラリー16での個展などで作品を発表。
1979年、地元に帰り、東三河の高校で美術を教えながら制作してきた。作品の発表が主に関西であったことから、愛知ではあまり知られていないが、今回、地元での初めてのまとまった展観が実現した。
筆者は、見るのは今回がほとんど初めてであるが、とても引きつけられた。センスがよく、一貫した問題意識も感じる。
村田さんは、年代的に1960年代終わりから70年代にかけ、表現活動を始めた。
それゆえ、もの派をはじめ、禁欲的な1970年代美術の影響が感じられるが、村田さんの作品はもう少し造形的で美しく、また隠喩的、詩的である。
記述の仕組み
「半島」という作品は、使い古した折り畳み椅子を二段に重ね、その間の空間に角材を同じ方向に差し込んでいる。
村田さんは、展覧会初日にあった美術評論家、三頭谷鷹史さんとの対談で、この作品を彫塑、塑造にたとえ、「空間を粘土で埋めるのは大変だから、木材で埋めた」と語っていた。
椅子が並んでいると、人間が整然と座っているような気配を感じる。それが角材に置き換わることで、椅子という機能性の残像、その概念が失われつつも、それでも完全に消失するわけではない。そのきわが感じられる作品である。
また、作品「島」は、使い込み、絵具がこびりついた木製パレットの、彫刻刀で彫り込んだところを「海」、残ったところを「島」として表した作品である。
「群島」などと題された別の作品とともにシリーズとして何点か制作された。
彫られたパレットの表面が静かに波打つようになっている中で、色彩が「島」のように浮かび上がる詩的な作品である。
このように、村田さんの作品は、身近な日常の生活空間を制作の起点にしているのが特長である。
今回は、1980年代までの作品が展示されていないので、なんとも言えないが、村田さんの作品には、1970年代的なコンセプチュアルで禁欲的な堅い雰囲気を残しながらも、軽やかさもあって、美術と日常性ということでいえば先駆性な部分もあるのではないかと思った。
使い込んだ日常的な物や、ホームセンターにある日曜大工材料、園芸の道具など、身近な素材を造形的に組み合わせたり、それらにわずかに手を加えたりしながら、日常から逸脱するような新たな発見の美学を放っている。
村田さんの作品を解く鍵は、展覧会タイトルになっている「記述の仕組み」という言葉である。
この言葉について、村田さん自身がカタログに書いた説明を解釈すると、その作品は、日常生活の中で、作家自身が(主観的に)目に留めた、物の《出来事》、物の《変化》をきっかけに、そのこと自体をささやかに造形化、あるいはイメージ化しているということになる。
素材を積極的に加工して主体的に作品を作るというのではなく、かといって、ものを関係性の中に配置するのでもなく、ものがある行為によって空間や次元を変化させる、本来の機能、文脈を離れて出来事、現象を起こす、あるいは、別の見え方がすることを、メモランダムのように作品にする。
素材を加工せずに提示し、主客を超えた「もの」との関係を追究したのが「もの派」だとすれば、村田さんは、生活の中で関わる物が起こす出来事、ズレの感覚(それを村田さんは「転調」と呼んでいる)を基に、メモランダムのようにさりげない造形化によって、メタファーと詩的イメージを与えるのである。
物のささやかな《転調》に世界の豊かさを見る、そんなメタフォリカルでポエティックな作品なのである。
村田さんには、「合図」というタイトルが付けられた 一連の作品がある。このことは、村田さんの作品を読み解くうえで、とても重要である。対談の中で、村田さんは、この合図ということをとても重視しているように思えた。
つまり、合図、すなわちシグナルとは、何か《転調》が起きていることをかすかに指し示すことはあっても、シンボルのように普遍的なものを表出することはないからである。
村田さんの作品は、明確で普遍的な意味に結び付かない。 つまり、作品の態様として、言語的な感覚、意味へのつながりが弱く、まだ、物としての存在性が強いのである。だから、見る人はそっけなく感じる。
いわば、意味の押しつけがなく、あくまで、かすかなシグナルなのである。象徴や意味、定型から自由になることで、新しい感覚への刷新を目論んでいると言っていいかもしれない。
例えば、「合図I」は、折り畳み椅子の縁と壁に挟まれ、白い円形の板が浮いているだけである。
また、「合図II」は、根が地中に広がるように鉄線が縦に伸び、その上に植木鉢を被せた作品である。床には、球根のような球体がいくつも置かれている。
草花を植えた植木鉢の天地をひっくり返したイメージといえば分かりやすいが、必ずしもそれほど単純ではなく、むしろ意味が宙づりにされる感覚がある。
「合図Ⅲ」は、使い古された事務机の一番上の引き出しが途中まで開き、植物のように錆びた鉄線が真っ直ぐ上に伸びている。
引き出しは、開けたり閉めたりするときに、空間の変容が起こる。その空間の《閉じ》《開き》という変化と、中に物が収まっているという感覚が、鉄線を生やすことであらわになっているともいえる。
作品「『鉄』のページに鉄類をはさむ」では、辞書を4冊積み上げ、そのページの間に、ペンチやハンガーなど鉄製品がしおりのように挟まれている。
タイトルからして、辞書の「鉄」の言葉があるページに、実物の鉄を挟んでいるのだろう。コンセプチュアルでかつ、ユーモアと造形性に富んだ作品である。
また、「引き出しの作品」は、大小の引き出しを壁に掛け、その内部空間を、切断した本や木、試験管など別の物で変容させたシリーズである。
「2つの手すり」は、2018年、村田さんがスロバキアのワークショップに参加したとき、アトリエの1-2階を結ぶ階段の木製手すりを繰り返し利用する中で、その機能性を捨象し、テンポラリーなものとして、壁に配置したものである。
見えない階段があるようにも見えるし、その手すりに付けられた色とりどりの革は、人が歩いた記憶の残像のように思える。
「TV drawing」は、テレビを一瞥したときに見えた対象を、はがき大の石膏板に、インクで左から右へと描くというシリーズである。
あえて、石膏板の表面にペン先が引っかかって、すらすら描けないようにしている。そのため、インクのにじみや、ペン先による石膏板を抉った痕跡もある。
テレビに映った断片を、わずかな時間差で石膏に描き写すわけだが、テレビのかすかな残像と抵抗感のある表面、自動筆記のような描法が渾然となることで、いわく言いがたいイメージの流れが生まれる。
このほか、散歩の途中、何気ない風景の中で見つけた小さな発見、気づきにデジタルカメラを向け、その画像を紙に貼って、補助線を引いたドローイング「散歩画」もある。
こうしたドローイング類も美しく、完成度は高い。
村田さんの作品は、日常性という部分で現代の若い作家の作品と触れ合うと同時に、それらが物語や意味、人と人との関係性に傾斜していくのに対し、むしろ、物によるささやかな造形化によって、日常世界の美しさを開示してくれる気がする。
村田さんの作品は、意味や明確なイメージが生成する段階、あるいは物語より手前のシグナルである。
それは確かに、1970年代的な要素を残しつつも、無味乾燥なものではなく、感性を動かす要素をもっている。
村田さんが対談の中で、次元を下げると語ったのが印象に残っている。
それは、3次元から2次元へ、ということに限らない。作り込まないで、むしろ、機能性を失わせたり、ずらしたりしながら、素朴な方法で造形化し、意味やイメージの手前の《転調》をシグナルとして知らせ、世界の豊かさを教えてくれる。
近代的な自我が物質を力でコントロールするのでなく、日常の中で、1人の人間である村田さんが、周囲の日常空間や、物の出来事に対して、その小さな声に“傾聴”するように自分を開いていくときに生まれる、新たな見え方、イメージや意味の手前のシグナルが、ここでは作品になっている。
村田さんが眼差しを向ける日常は、常にうつろいゆく世界でもある。当たり前に過ぎる日常の無常の中に存在するものと自分との関わりが、制作の基本にある。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)