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弁造さんのエスキース展 at ON READING

ブックショップ・ギャラリーのON READING(名古屋市千種区東山通5−19 カメダビル)で2019年8月31日〜9月16日、北海道の小さな丸太小屋で自給自足の生活を営んでいた「弁造さん」の下絵を紹介する「弁造さんのエスキース展」が開かれている。写真家の奥山淳志さんによる著書「庭とエスキース」(みすず書房)の出版記念展で、全国を巡回中。奥山さんは、弁造さん(井上弁造さん)の元に通い続け、その生に寄り添いながら写真を撮り続けた。展示したのは、弁造さんの没後、長年暮らした丸太小屋に遺されたエスキースの数々。弁造さんが個展を開く夢を胸に秘めつつ、いつまでも完成しないまま描き続けた作品は謎めきながら、生のきらめきを宿す。

弁造さんのエスキース展

奥山さんは他者の人生に触れたいと、季節のうつろいの中で14年間にわたり、弁造さんにカメラを向けた。著書「庭とエスキース」(2019年4月刊)では、互いの生を結び合ってきた奥山さんが弁造さんの「生きること」を思い、綴った他者の記憶についての物語24編と40点の写真が響きあっている。
人と人が出会うとは、どういうことなのか。一方が他方の生に触れるとは。この写文集が出版されたとき、92歳で旅立った弁造さんの死から7年が過ぎようとしていた。私たちの日常は、ともすれば、型にはまった日々をやり過ごし、自然や自分の内奥の声の横を通り過ぎ、生きることを簡略化しながら自分も世界も消費している。奥山さんによる弁造さんとの、一つ一つの時間を抱きしめるような交感は、生きること、老いることのささやかだけれでも大切な断片を確かめていくような作業である。
人は自分の人生しか生きられない。だが、奥山さんは著書で書く。「弁造さんを撮り続けた結果、確かに今の僕の胸には、弁造さんの生きた時間がある。僕が出会ってからの弁造さんの時間だけではない。弁造さんの口から語られた、僕の知らない、出会うよりずっと前の弁造さんの日々も不思議なことに僕の胸の内で息づいている」「ときおり、弁造さんの生きた日々が今の僕自身の生きることを両側から支えてくれているのではないかと、錯覚にも近い思いを妙に生々しく感じることがある」

 奥山さんは、1998年から2012年までの14年間、移住した岩手県雫石町から、北海道新十津川町の外れにある弁造さんの古ぼけた小屋に通い続けた。出会った時の弁造さんは78歳。新十津川町は、明治22(1889)年に起きた奈良県十津川村の十津川大水害の被災民が原野に入植したのが始まりとされる土地である。弁造さんは、明治から続く開拓の最後の世代として生きてきた。畑、果樹、池、林などで構成される「庭」を自然とともに生きる自給自足の実験場と捉え、小鳥たちの冬の食べ物となるトウモロコシやヒマワリなども植えた。
 奥山さんが訪ねると、弁造さんは、最低限の生活を営む一部屋だけの丸太小屋で、イーゼルに向き合い、エスキースを描いていた。今回は、その中から選んだ30点ほどのエスキースと、奥山さんの写真が展示された。
 描くのは、女性(裸婦含む)や母子ばかり。木陰で文庫本を脇に置いて佇む女性、南国風の木陰で横たわる裸婦、顎を左手で支えている女性の顔や、娘の髪を触る母・・・。紙きれにエスキースを徹底的に描いたといい、紙袋やチラシの裏紙などに描いたものもある。水彩やペン、鉛筆などが中心である。生涯を独身で過ごした弁造さんがなぜ、そんなモチーフで完成しない作品を描き続けていたのかは謎である。

弁造さんのエスキース展

弁造さんには、母子を描いた1点の油絵以外に、完成した作品はない。いつまでも完成しない絵を描き続けるとは、どんな営みだったのだろう。
ON READINGの担当者によると、弁造さんは一方で、個展を開きたいという目標も語っていた。自分が心動かされるものしか描かないという思いが強く、納得するものができないと絵を消してしまう。「未完成」を続けることに、どんな含意があるのだろうか。一人、小屋の中で、対象の存在しない女性あるいは母子を描いたエスキースは、何を伝えようとしているのか。
ただ、一つ言えるのは、このエスキースを続けることが、「庭」をつくること、森と畑に関わって、そこに自分の生を開いくことと同じであったということである。「庭」をつくることも、エスキースを描くことも、生きることそのものだった。自然に囲まれた丸太小屋での弁造さんの自給自足の暮らしの中に、外の世界を映した何らかの思想があったとするなら、これらのエスキースは、それとは異なる弁造さんの内なる世界であったのだろう。そして、「庭」での暮らしも、描くことも、今、できることを自分に忠実にしていた、それらに静かな情熱を傾けていたとしか言えないのだ。

2009年、当時88歳だった弁造さんが自ら書いた略歴によると、1920(大正9)年、父・祐一と母・きみよの次男として新十津川総富地に生まれた。16歳で高等小学校を卒業した後は、家事を手伝った。父は農産物検査員の傍ら、小作農を営んだ。19歳の春に現在地に入植。夏は農業の手伝い、冬は叔母の家のあった東京で洋画を学んだ。戦中、兄と弟が兵役、自分は2カ月の教育招集で家を守って終戦を迎える。戦後は、出稼ぎや日雇いと忙しく絵を描く時間も少なく、70歳で体調を崩す。最後に「今88歳、もし一度個展をひらくことが出来たら幸いです」とあった。

奥山淳志(おくやま・あつし)=奥山さんのwebサイトより
1972年 大阪生まれ。京都外国語大学卒業。
1995〜1998年 東京で出版社に勤務した後、1998年、岩手県雫石に移住し、写真家として活動を開始。以後雑誌媒体を中心に北東北の風土や文化を発表するほか、近年は、フォトドキュメンタリー作品の制作を積極的に行っている。
2019年『第35回 写真の町 東川賞 特別作家賞』受賞
2018年『2018年 日本写真協会賞 新人賞』受賞
2015年『第40回 伊奈信男賞』受賞
2006年『フォトドキュメンタリーNIPPON 2006』(ガーディアン・ガーデン)選出

弁造さんのエスキース展
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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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