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森岡完介「1975」版画展〜鯉江良二さんを偲ぶ〜 11月21日まで

  • 2021年11月7日
  • 2021年11月8日
  • 美術

サロンジャルダンアートギャラリー(名古屋) 2021年11月6〜21日

森岡完介

 森岡完介さん1941年、名古屋市昭和区生まれ。愛知学芸大学(現在の愛知教育大学)美術科を卒業した。

 主に風景をモチー フにしてきた版画家 、画家である。詳細は、2021年1、2月に東京、名古屋であった個展の際に書いた記事を参考にしてほしい。

 本展は、2020年8月に他界された陶芸家、鯉江良二さんの追悼展。森岡さん、鯉江さんの1960、70年代の知られざる交流を紹介していて、とても興味深い。

 年齢でいうと、1938年生まれの鯉江さんは、森岡さんの3つほど上になる。共に20、30代のころの話である。筆者も、全く知らなかったエピソードで、作品とともに強く印象付けられた。

「1975」版画展〜鯉江良二さんを偲ぶ〜

森岡完介

 森岡さんと鯉江さんの出会いは1968年。1970年12月の個展に向け、森岡さんは、陶芸の作品を制作しようとしていた。当時、森岡さんは27歳、鯉江さんは30歳の頃である。

 多数の茶碗の生地を真っ二つに切断し、それらを焼成。その後に、数十にもなった半分の茶碗を、当初とは異なる組み合わせ同士で再びくっつけるという、コンセプチュアルな作品である。

 森岡さんは、制作の協力を得るため、愛知県常滑市の鯉江さんの仕事場を訪れた。鯉江さんは、森岡さんの提案を面白がり、快く引き受けてくれたという。

 鯉江さんは、生地の調達では、森岡さんと一緒に愛知県瀬戸市まで同行。半分に切断した茶碗の焼成もしてくれた。

森岡完介

 当時、森岡さんにとっては、茶碗は日常性の象徴であり、衝動に突き動かされたようなその切断は、日常からの飛躍という意味合いもあった。

 再生された「器」は決して元のものではない。もともとの器とは違う半分と組み合わされているので、ぴったり合致することはなく、接着面に隙間ができる。器としての用途は既にないのだ。

 続いて、1975年。2人の間には、もう1つの接点があった。

 2人が30代半ば頃のことである。森岡さんは、常滑市天竺に大型の窯をもった鯉江さんを訪ねた。病床にあった愛妻との別れが迫っていた鯉江さんは、「俺にできることは、妻の隣で添い寝をしてやることだけだ」と呟いたという。

 鯉江さんが土の人面を箱に詰めて野焼きをするとの情報を得た森岡さんは、現場に赴き、炎と煙に包まれて格闘するその姿を見守り続けた。

森岡完介

 今回、展示されたのは、そのときの写真を基に制作した1975年の版画作品「人は何処へ」の連作である。

 鯉江さんの姿は、原初的な儀式をつかさどるシャーマンのようである。

 版画家・画家、陶芸家という、ジャンルが異なる2人の交流の軌跡とともに、熱い時代がよみがえる。作品、当時の新聞記事などから、この地方の美術史の一端がうかがい知れる。

 隣のGallery 佑では、「旅色〜版と陶〜森岡完介 / 酒井智也 二人展」も同じ日程で開催されている。記事は別途、近くアップする予定である。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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