水上旬の60、70年代
ここでは、これまでほとんどまとまった分析がなされていない水上旬の1960、70年代を本人への聞き取り調査を元に記述する。ハプニング(行為、リアクション)、THE PLAY(以下、プレイ)の活動、「もの派」に対して言語を駆使した「かみ(紙)派」または「ニル派」の観念芸術、メールアートやメタアート、音声表現など、当時の水上の活動は極めて多様で、限られた時間でその全貌をつかむのは容易ではない。
とはいえ、行為表現を開始した60年代初頭から、60年代中頃の「汎儀レポート」という言語表現の開始、60年代後半のプレイ結成へと至り、そのプレイからの離脱と70年の「ニルヴァーナ(涅槃)—最終芸術のために」展(京都市美術館)を経て、軸足が行為表現から言語表現へと移り、水上自身が主宰した74年の「SIGNIFYINGー言語 事物/態度の表明とともに」展(同)という一つの極点を迎えるという70年代前半までの過程はおおよそ整理できた。つまり、ハプニング開始とその展開(60〜66年)、プレイ参加と言語表現の萌芽(66〜69年)、言語表現に傾斜した「ニルヴァーナ」から「SIGNIFYING」へ(69〜74年)である。
ハプニング開始とその展開(60〜66年)
水上の作家活動を検証する上で注目すべきは、最初の展覧会と推測される62年の「京都アンデパンダン展」の二年前、既に60年に最初のハプニング的行為とみられる表現をしていることだ。東京・永田町で行ったこの「追悼儀」は、60年安保闘争で国会突入の犠牲となった樺美智子を悼むため、友人と麻紐を圧死現場の道路に渡し、その中央から小石を吊した簡素な儀式である。
わずか1、2分程度とはいえ、ここから水上は行為表現の実質的なスタートを切る、と同時に、この樺の死を機に「学生運動政治」に背を向け、広義の芸術運動に自分を賭ける意思を固める。「追悼儀」以後、水上は極めてパーソナルなハプニング的行為を続けていく。61年、「KICK代理社よりの贈り物」と名付けられた初期ハプニングは、全国へ旅をしては、その途上の杭や石の上などに手持ちの品などを「贈り物」として置いてゆく原初的なものだった。
この頃、水上は京都大学で民訴法の勉強をしていた。水上は母の実家がある京都で生まれ、幼年期は、判事を務めていた父の赴任地を転々。名古屋の富士中学、明和高校へ進学後(父方の実家は岐阜県)、57年夏、予備校のため京都へ移る。大学進学は58年春。大学では当初、詩作に専念し同人詩誌や京大詩集の編集に携わるが、この時期、短詩型文学や異端文学、ビート文化、仏教・宗教関係などに傾倒した体験はその後の芸術活動への伏流となる。卒業は63年春だ。
喫茶店で衣服を脱ぎ捨て裸になって白衣に着替えた「精神改造計画儀」(京都、62年)、街頭の人物彫刻に包帯を巻いていく「人像御包帯式」(名古屋、63年)など、大学時代を含め、62、63年頃から、京都及び名古屋で様々なハプニングが本格的に敢行された。テープ状の布に言語をつづり、座り込んだ数人で同時に音声を読んでテープを回転させていく「ラウンドテープポエム」(名古屋、64年)は、既成の文体としての「詩」との訣別を意味していた(のちの言語を使った観念的表現への伏線か)。
65年8月、岐阜アンデパンダン・アート・フェスティバルに闖入した水上は、河原の石ころに記号をつけて歩く「記号学」、唇を震わし不意に出現する「唇為のBUBLE」などの行為を実行した。この年は、「蛍光体展示 胎内願望説」(京都・丸山音楽堂)、「貞操帯に対する複合されたオストラシズム、フェティシズムまたは裏返された貝殻」(京都市美術館、青美展)など、精力的にハプニングなどの発表を続ける。
プレイ参加と言語表現の萌芽(66〜69年)
兵庫県立美術館の平井章一による年表「関西戦後美術年表ー1980年まで」には、66年に「水上旬ハプニング」(京都・都雅画廊)の記述がある。この「貞操帯に対する複合されたオストラシズム、フェティシズムまたは裏返しの軟体類」が、水上にとっての最初の個展だ。会場では、天井からビニールシートがカーテン状に吊られ、ビニールや麻紐によるオブジェが飾られた。参加者らはビニールにくるまって詩朗読や舞踊、楽器演奏などの行為を発表。水上は、10メートル以上はあろうかという長大なビニール製立体「胎内願望説」の内部に入り、蠢く環形動物のように這い回りながら、京都・四条通の歩道を這いながら移動するハプニングもした。
この個展で印刷されたA4の紙が、後に「汎儀レポート」と呼ばれる水上最初の言語表現の作品だ(よって、松澤宥が紙と文字の表現を始めた64年から二年の時間差があることになる)。ここには、「・・・凡自由から反自由への抜け穴 記号蛇 死胎安置のための装置 癒着した痴呆と癒着した賢者の観光案内・・・」という調子の言葉が十三行並んでいる。個展のイメージを伝える案内状であると同時に、それ自体が一つの作品(展示)として、流通することで、既成の制度を離れて芸術が成立する可能性に賭けた表現だった。これらの言語は、オートマティスムの影響下、継起的/複合的な言語の連鎖そのものを自在に感じ取ってもらうことを主眼としたようだ。「汎儀」は、60、70年代に水上が名乗った「古式汎儀礼派」の略。この「汎儀レポート」を「1」とし、以後、「2 仮面儀他・HAPPENINS ON TUNE」(66年)、「3 AS YOU LIKE」(67年)・・・と、言語表現が展開されていった。66年以降、行為表現や、「小道具」と呼んだオブジェ系作品の展示が相次ぎ、そのうちのいくつかは「汎儀レポート」を伴っていた。67から69年にかけては、多彩な表現が数多く紡ぎ出されていった時期である。
個人のハプニングの延長で、美術の制度の外部へ出る集団的活動として、水上が池水慶一らとプレイを結成したのは67年である。行為表現に挑戦していた関西の作家が中心となって結成し、水上は結成メンバーとして、68年、潮岬冲に巨大な卵を放流する「VOYAGE」はじめ、数々のハプニングに参加した。69年には、「プレイ新聞」が発行され、3号まで続く。1号で、水上は「ハプニングス」に関する九個の基礎的宣言を起草している。要約すると、水上にとって、ハプニングは、▼全的な芸術の総合形態▼行為過程での意識の運動▼形式と意識領域の拡大▼日常と芸術の相互流入▼状況に対する選択的反応を持つ意識の訓練、であった。
もっとも、ハプニングに定義を与えた60年代末頃、水上は、現実にはハプニングが表現の拡張によって定義不能に陥り、粗製乱造されつつある傾向に危機感を強めていた。既に68年、関西の行為表現者が集まった大阪で、改めて「区分帯積算反応 リアクションズ宣言」を実演したのも、こうした危惧の現れであったろう。ここで水上は、時間を区切って間歇的に妻の朝子と反応し合うリアクションを発表した。水上にとって、ハプニングとは「リアクション」と同義である。すなわち、単なる偶発的な挑発行為ではなく、そこには「反応」がなければならなかった。
こうして、この時期、水上に転機が訪れる。69年6月、京大内でのハプニング「紐力学志向儀」では落下負傷、ハプニングについての自問自答の深みに没入する。「測定係数」と題し、数ヶ月にわたり、京都市内各所で様々な行為表現を続け、自らの中でリアクションを総括しようとするのもこの頃だ。「プレイの行為が単なる演劇の設定展示のようになってきた」。プレイとの関係の清算を思案した水上は69年末、プレイを離脱。66年の「汎儀レポート」以来、行為から言語へと表現領域の重点を移してきた水上によって一つの決断が下されることになる。
言語表現に傾斜した「ニルヴァーナ」から「SIGNIFYING」へ(69〜74年)
65年、岐阜アンデパンダン・アート・フェスティバルの頃の松澤宥との出会いが、70年の「ニルヴァーナ」、すなわち「かみ派(ニル派)」へ展開していく一つの契機となる。松澤と水上。ともに「詩」からスタートした二人の創造者が共感し合ったのは当然の成り行きであったろう。69年8月、水上は、長野・信濃美術館に赴き、松澤宥、春原敏之らによる自主企画展「美術という幻想の終焉」に加わる。つくることの放棄を目指したこの展覧会の帰路、松澤宅に立ち寄った水上は、松澤から「ニルヴァーナ」具体化への構想を打ち明けられる。実体的な造形物を極限的に減らす美術展への意見を求める松澤に対し、既に言語表現へ比重を移していた水上は賛意を示し、その一方でハプニングはその展覧会に含めないよう進言した。
こうして、京都市美術館で「ニルヴァーナ—最終芸術のために」が開かれたのは70年8月。出品したのは水上の他に、松澤宥、小林起一、河津紘、前山忠、堀川紀夫、春山敏之、田中孝道、金子昭二、赤土類、栗山邦正、山本(宿沢)育夫、芦沢タイイ、米津茂英、奥村俊郎(水上の記憶等による)ら、当時、主に言語概念系の作品を発表していたと思われる作家たち約八十五人である。この中には、「I AM ALIVE ON KAWARA」の電報を展示した河原温や、やはり電報を出した河口龍夫や瀧口修造らもいた。このあたりの事情については、「美術手帖」(70年10月号)の福住治夫のレポートが詳しい。それによると、展示されたほとんどは、謎めいた写真や、文字、記号を書いた紙ぺらの類。参加呼びかけ文には、「非実体主義」「消滅主義」「不可視の表現虚」などの言葉が並び、実体や物体を離れた念写図、写真、磁気テープ、フィルム、メモ、ビラなどの展示が期待されていた。ここには、松澤らの主張であった近代の物質主義への批判、精神を根幹に据える主張、自分の生と美術との関わりを模索する意識が、孕まれていた。会期は三日間。8月12日は全ての作品が二階全室に提示され(と言ってもほとんど、がらんどうに近い状態)、それが13日には半分の展示室へ収まり、14日には一部屋へ押し込まれ、15日の終戦記念日には跡形もなく消失した。まさに、「かみ」だからこそ可能なたくらみだ。
「ニルヴァーナ」後、水上は、71年11月1日、住民票を京都から名古屋に移し、帰郷する。間もなく71年末から制作を始めた「108SECTIONS(汎儀レポート 61)」は、108の重要な言葉を箇条書きした作品で、概念の分類/合成がどのぐらい可能なのかを考えたものだったという。76年までかけて整理され、「1 合成へ、異なるレヴェルの文脈を接辞でつなぐ」、「2 決め 歩むこと」・・・と108項目の言葉が連ねられている。これは、概念と認識の問題への探求であったが、アンケート形式で知人らにも郵送され、メールアートの性格も備えていた。長年、拠点とした京都を離れた水上が、それまでの活動を集約、併せて折に触れ参照し、その後の活動の指針や作品の素材にする「術語集」にした作品である。
74年、京都市美術館で開いた「SIGNIFYING」は、水上の70年代前半までの極点を示す試みだ。主催は「シグニファイング共同実行委員会」で、河口龍夫、小清水漸、沢居曜子、清水誠一、庄司達、松岡正剛、真板雅文、松澤宥、宮崎豊治、村岡三郎、山本圭吾らが名を連ねたが、実質的な主宰者は水上である。表現自体が拡散していく中で、美術作品の概念定義(言語)あるいは態度表明文(表現する姿勢)を作品とともに展示せよ、との呼び掛けで企図したものだ。この頃、「態度」は、水上にとって極めて切実な精神的な課題であった。
行為と言語を突き詰め、京都から名古屋に移動した頃、言い換えると、「ニルヴァーナ」(70年)から「108SECTIONS」(71〜76年)、「SIGNIFYING」(74年)へと連なる時期、水上は、「生きること」が自身の芸術活動の根幹であることを認識し直す。「生きている」ことが、水上の芸術活動を考える上で避けることができないものであることは、例えば、彼の略歴に、出生年月日時間(1937年11月12日11時)と、それから99年9月9日9時間後の死亡予告時間(2037年8月21日20時死望)、朝子との結婚(68年)、長女ニルヴァナの嬰児誕生(71年)、二女六蔵子誕生(72年)等の記載が、展覧会歴以上に重大事項として記載されていることからも明らかだ。
63年を最後に終了した読売アンデパンダン展以後、その「無法性をより直接的に継承したのは、これまでの美術史でほとんど語られることのなかったパフォーマンス系の個人・グループの作家たちではないか」(「知覚の襖ー都市空間における『ゼロ次元』の儀式」)と黒ダライ児は書き、水上旬の名前も挙げる。確かに、63年に京大を出た水上は既に、学生時代からハプニングや京都アンデパンダン展などへの出品していたとはいえ、実質的にはポスト63年の作家と言える。水上らの活動は、行為や言語など、物質的/造形的な実体が残らないがゆえに、多くの評論家や学芸員らに拒否されてしまう傾向があったことは、今回の水上の語りからも十分に察せられた。
「美術に収斂しない日本の概念芸術の原型を孕む幅広い表現が提示され、展示のための作品を目指すのではなく、表現を、『生きること』の問題に近づけようとする試みが内包されていた」。70年の「ニルヴァーナ」について、水上はこう振り返る。69、70年頃までに、当時の松澤や水上らのグループの中で、「かみ派(ニル派)」の呼称が具体的に誰の発言からどのように生まれたのかは、今ひとつ判然としない。ちなみに、千葉成夫「現代美術逸脱史」は、「もの派」に対するものとして、「かみ派」ではなく「日本概念派」を措定し、60年代から70年代初めにかけて、松澤、高松次郎、柏原えつとむを系譜づけている。水上によると、「かみ派(ニル派)」は、69年の長野での「美術という幻想の終焉」頃を起点として、70年の「ニルヴァーナ」と、その後、長崎、長野・諏訪、名古屋、京都など各地で開かれたいくつかの「ニルヴァーナ」系展覧会を経て、74年の「SIGNIFYING」頃をもって、一つのまとまりとしては実質的に終息に向かう活動であったようである。73年の京都ビエンナーレには、「ニルヴァナ資料集積ー究極表現研究所」と題して、水上を含む「ニルヴァーナ」系の作家の資料がまとめて展示されたものの、「かみ派(ニル派)」(69年頃から74年頃か)のメンバーは、次第にその集合体の紐帯を弱め、そのまとまりを解体させていったと解さざるを得ない状況に向かったと思われる。
しかし、そうだとしても、海外や東京中心の特定の作家の展開に還元して美術史が語られがちな今、まさに足下で60、70年代をとてつもなくエネルギッシュに生き抜いた水上らの足跡を、その先駆的な芸術活動と社会への対抗として、しっかりと文化史の中に位置づけることが必要なことだけは確かだ。
本稿は芸術批評誌「REAR」(2004年6号)に掲載したものに加筆修正した。