アーティスト・イン・ミュージアム AiM Vol.9 三宅砂織
アーティストが滞在制作するプロセスと作品を公開する岐阜県美術館の「アーティスト・イン・ミュージアム AiM」の一環で、岐阜市出身のアーティスト、三宅砂織さんが新作を制作した。
滞在制作・作品展示期間は2021年 2 月 13 日~3 月 28 日。会場は同館アトリエである。
期間の最初に続き、3月20日に再度、足を運ぶと、3つの映像作品を中心に、アトリエ内が1つの「庭園」のような空間に変容していた。
三宅砂織さんは1975年、岐阜県生まれ。京都市立芸術大学卒業。英国 Royal College of Art への交換留学を経て、2000年、 京都市立芸術大学大学院美術研究科を修了した。
フォトグラムの手法を使い、既存の写真や印刷物のイメージを描いた透明フィルムの陰影を印画紙に焼き付けた作品や、映像作品で注目されている。
見るという日常的な眼差しによって、私たちに内在化され、共有される「絵画的な像」を、他者の人生、家族、歴史や風土、国家、作家による視点、見る者の記憶など、さまざまな関わりからポリフォニックに浮かび上がらせる作品である。
近年の主な展覧会に、「MOT アニュアル 2019 Echo after Echo:仮の声、新しい影」 (東京都現代美術館、2019〜2020年)などがある。
最近では、名古屋市内の アートラボあいちで2020年11月27日〜12月20 日に開催された「task」展でも、三宅さんの作品が紹介された。
制作プロセスと背景、作品概要
三宅さんは2019年秋頃に美術館からオファーを受け、2020年は、頻繁に岐阜に足を運んでリサーチを進めた。
今回、三宅さんは、岐阜県美術館のある公園(庭園)をモチーフに作品を制作した。この庭園内には、数々の屋外彫刻が設置されている。
制作期間の当初、会場となる岐阜県美術館のアトリエには、公園に関する記録、過去の岐阜県美術館の展覧会カタログなどの資料とともに、備品、機材などが置かれていた。
約1カ月後に完成した作品は、3つの映像作品を中心に、フォトグラムと、関係する展覧会カタログ、屋外彫刻設置に関わる写真資料、パフォーマンスの記録写真、サイアノタイプのフォトモンタージュなどである。
3つの映像作品は、アトリエ空間を生かすとともに、フェルトのカーペットやストリングカーテンなど、もともとそこにあった備品も利用して投影。全体が1つの映像インスタレーションになっているような印象を受けた。
映像の壁やカーテンなどへの投影や透過を含め、空間の中で多視点的に映像のレイヤーが構成されているのである。
三宅さんの作品で、庭園といえば、ドイツ・ポツダムの庭園がモチーフになった映像作品《Garden(Potsdam)》が思い起こされる。
また、今回のモチーフである岐阜県美術館の庭園には、屋外の展示として、マイヨール、榎倉康二、李禹煥、小清水漸、鯉江良二、林武史などによる多数の野外彫刻がある。
この庭園は、空間、彫刻、そこを歩く人たちの関係を見たとき、多数の彫刻があるにもかかわらず、彫刻の設置を前提に設計されたというよりは、空間のボイド(余白)に作品が置かれている印象があると、三宅さんはみている。
この庭園の中で、野外彫刻をどこに配置するかという決定プロセスはどうだったのか。
彫刻を鑑賞する人は、どんなきっかけで作品の前に立つのか。あるいは、これらの彫刻作品をどちらの側から眺めるのか・・・。さまざまな問いかけが三宅さんの中で湧き起こった。
ポツダムの庭園からの作品展開、岐阜県美術館や庭園の歴史的背景、周辺を含めた環境、コロナ禍における美術館の閉鎖やそれゆえの屋外への意識、経済的な疲弊、閉塞感やストレスといった社会的、精神的な状況・・・。
三宅さんは今回、庭園の来歴、デザイン、空間と彫刻の関係をはじめ、過去から現在へとつながるさまざまな視点から、この庭園を掘り下げた上で、岐阜県美術館アトリエを、鑑賞者が回遊する「庭園」のような映像空間に変容させたのである。
着地点を決めた上での制作ではない。繊細な感覚で、過去と現在の多様な結び目を手繰りよせるように制作は進んだ。
3つの映像作品
庭園をモチーフにした3点の映像作品は、いずれもポジ/ネガが反転し、現実と非現実を往来するような幻想的な雰囲気をたたえている。
壁とストリングカーテンに投影された映像《Untitled》(13分)は、庭園内を流れる小川の水に映った樹影の揺らぎを定点カメラでとらえている。
鑑賞者が近くを歩くと、その影が樹影の揺らぎの中に取り込まれる。
また、光の透過性が高いストリングカーテンに映された映像は、鑑賞者の位置、カーテンの揺れによって変化し、神秘的な陰影となって不穏な印象さえ与える。
別の映像作品《Garden(MoFA,Gifu)》(13分)では、三宅さんの眼差しによって切り取られた庭園内のさまざまな映像をつないでいる。
その映像には、野外彫刻、地面、美術館、樹々など、さまざまな要素が含まれている。
一方、フェルトのカーペットを床に立てて投影した映像《Untitled》(18分)は、カメラがゆっくり水平方向にパンし、庭園内の樹々、野外彫刻、美術館の建物などを映している。
映像が投影されたこのフェルトの真ん中には、切れ込みが入っている。
屋外彫刻の1つ、大成浩さんの《風の影No.1》(1982年)の形態からインスピレーションを受けたものである。
大成さんの彫刻は映像の中にも登場する。映像が水平移動する中で、フェルトの切れ込み(穴)と映像内の彫刻の穴が重なるなど、物質と映像の関係が面白い。
切れ込みを透過した光は、壁に細長い像を投影している。
また、フェルト面を透過した光は、裏面にも不定形な陰影がうつろうようなイメージを映し出している。
絵画的な像
事前リサーチや、滞在制作中の出来事を含め、美術館を含む庭園空間と野外彫刻の配置、その歴史的背景、空間の一部になる作家自身の身体性と眼差し、あるいは展示方法から、さまざまなイメージが浮かび上がる。
庭園空間と美術館、屋外彫刻作品、樹々と、訪れた人々の姿、眼差し、過去と現在、光と影、表と裏、存在と不在、揺らぎ、うつろいなど、多層的なレイヤーが交錯するもう1つの「庭園」の中を歩きながら、鑑賞者はそれぞれに、三宅さんがいう「絵画的な像」を想起するのではないか。
「絵画的な像」は、人々の眼差しに内在するピクチャレスクな(絵画のような)イメージだが、あらかじめ決まったものがあるわけではない。
三宅さんの作品は、絵画、あるいは、絵画的なイメージを歴史の中で捉え、考古学的に掘り下げるとともに、それを現代的な問題意識で探っている。
絵画の源流の1つともいえる「影」やネガを手掛かりに絵画やイメージを考えることがベースになっているのも特徴である。
また、スローモーションで投影されている映像作品《Garden(Potsdam)》なども、「絵画的な像」という彼女のコンセプトから考えると、still/movie(静止画/動画)の中間的な、絵画的映像ともいえる。
映像もまた、絵画に影響を与えたものの1つである。
フェルメールがカメラオブスキュラの画像(映像)を基に描いたことはよく知られているが、三宅さんが教えてくれたデイヴィッド・ホックニー著「秘密の知識」では、ホックニーは、ピンホールカメラ、カメラオブスキュラなどの光学機器とその画像(映像)、絵画との関係に深い関心を向けている。
ホックニーは、フェルメールに限らず、多くの西洋絵画が光学機器を使って描かれたと考えている。
三宅さんもまた、映像作品を、絵画の基になる前段階に位置するものとして捉えて制作している。
私たちの眼差しと、そこに内在する「絵画的な像」、影、あるいは歴史的な、あるいは現代のビデオやSNSなどの画像/映像、そして絵画・・・。
こうした三宅さんの問題意識を踏まえ、岐阜県美術館の庭園デザインと空間、彫刻、歴史、私たちの眼差しを題材に、新たな映像インスタレーションが完成した。
3つの映像作品は、単体でも、全体としてのインスタレーションのかたちでも成り立つ。空間の作り方、物質との関係性を含め、さまざまなバリエーションが可能だろう。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)