YEBISU ART LABO(名古屋) 2021年11月12日〜12月5日
三毛あんり
三毛あんりさんは1990年、東京都生まれ。多摩美術大学造形学部造形学科日本画専攻卒業、同大学大学院修士課程絵画専攻日本画研究領域修了。
名古屋では、初めての個展である。筆者は当然ながら、初めて拝見する。作品は、日本画の画材による、不気味な自画像といったところである。
作者への取材ができていないため、アーティストのKOURYOUさん(愛知芸術文化センター情報誌AAC ウェブマガジンVol.109 2021年9月に記事掲載)によるWEB上のインタビューと、三毛さんが2017年に個展をしたゲンロン カオス*ラウンジ 五反田アトリエのWEBサイト、2020年に個展をしたs +arts(スプラスアーツ)のWEBサイトを参考にした。
これらを総合すると、三毛さんは、明治時代に創出された「日本画」が日本という国民国家のアイデンティティー、いわば国家の自画像を担うという目的を担わされた手段であったという歴史を前提に、手段と目的を反転させ、現代における日本画を描くために(目的)、自画像というモチーフを選んだ(手段)。
実際に三毛さんが描く自画像は、自身の顔、身体が対象だが、後で述べるように、それが現代日本の肖像画にもなっていると筆者は解釈した。
もう少し分かりやすく言うと、三毛さんは「私」を描くことで、現代において「『日本画』は可能か」と問いかけている。
ゲンロン カオス*ラウンジ 五反田アトリエのWEBサイトによると、三毛さんは「現代の上村松園になりたい」と語っている。
上村松園が、近代の美人画という日本女性の美のイメージによって、日本のアイデンティティーを示したとすれば、三毛さんは、さまざまな姿に変容するグロテスクな異形としての「私」を使って、現在の日本の自画像を表象させ、日本画を成立させたいと考えているのではないか。
その証拠に、今回の個展のタイトルを、三毛さんは《generic portrait》としている。これは、「一般的な肖像画」という意味である。筆者は、「一般的」を「現代日本」と捉えた。
generic portrait
三毛さんの作品は、とにかく気味が悪い。幽霊、妖怪のようでもある。岸田劉生、甲斐庄楠音など「デロリ」の系譜を引き継いでいる。
その一方で、今風で少女漫画的、アニメーション的。デロリとした湿気や生臭さは乏しく、むしろ、ユーモアを感じさせ、さらりとしている作品もある。
ただ、執拗に描かれた目や毛、皮膚の表裏の表現は繊細、奇怪で、オブセッションを感じさせるほどである。
過去の作品を見ると、鏡で確認できない想像上の自分、SF的 / 近未来的 / サイボーグ的な自分、神話や文学の登場人物としての自分、器や石になって身動きがとれない自分など、多様なモチーフで自画像を描いていることが分かる。
筆者は、これらの不気味さ、乾いたグロテスクさが、現代の日本の自画像に思える。
三毛さんが描くのは、「私」であると同時に、等身大の日本人の自画像であって、ひいては現代の日本そのものである。
それは、例えば、デジタライゼーションの奔流の中で身体感覚を失い、 イメージの世界を生きている若者たち、官能的なファッションをまとい、それなりに満たされながらも、身動きが取れない空虚さを抱えた人たち‥‥。
経済的にはなんとかなり、享楽的に日々を過ごしながら、幸福感や希望からは遠く、広がる格差の中で楽観的とも悲観的ともいえないような生きづらい状態にある。
生の危険があるわけではないが、滑り落ちると、死の淵に追いやられることがないとも言えない毎日である。
そうした中で、三毛さんの立ち位置は、s +artsのWEBサイトに書いてあるように、アンビバレントである。
かつての「日本画」を国策のように捉えながら、その「日本画」を逆手に取っている。「上村松園になりたい」と言いながら、グロテスクのほうに接近している。「ポジショニング」から降りたいと言いながら、自分もポジショニングしている‥‥。
スプラスアーツでの個展のタイトルは「センシュアルストーン」。今回も、同名の作品が展示されている。
このタイトルは、センシュアル(官能的)とストーン(石)を組み合わせた三毛さんの造語。現代的な女性スタイルで生きながらも、身体は思い通りにならないという、相反する性質を併せ持った自画像として提示している。
三毛さんの作品で、印象に残るのは目(眼球)であろう。目が分裂するように増殖している絵はとても印象的だ。
あるいは、自分の頭部の内側と外側が反転・錯綜しているイメージも強く訴えてくる。ここでは、目の位置が内側なのか外側なのか見分けがつかず、どこを見ているのか、どこが見られているのか曖昧としている。
三毛さん自身がドッペルゲンガー(分身)と向き合うイメージや、鏡像を介して自分が分裂しているような作品もある。
「見る」「見られる」へのオブセッションは、三毛さんの作品の大きな特長になっている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)