なうふ現代(岐阜市) 2021年11月20日〜12月12日
松本幹永
松本幹永さんは1963年、愛知県生まれ。1985年、名古屋芸術大学美術学部洋画専攻卒業。
筆者は、1990年代中ごろから、愛知県一宮市のギャラリーOH、織部亭での個展、グループ展などを見てきた。
2019年には、松本さんが家業を営む「日本料理 寶樂」(愛知県一宮市)で「公器の庭」と題したグループ展を企画した。
虚実ノ皮膜〜ひらいてむすんで〜
今回の個展は、ミクストメディアによる絵画、鉄の棒をぐにゃぐにゃに曲げて溶接したオブジェ、舟の形を模した大型の立体で構成されている。
筆者は、それぞれの作品に見入ると同時に、全体をインスタレーションのように眺めた。現在の世界を反映させた混沌の中を漂流する舟というイメージである。
コロナ禍の状況が色濃く投影されていると見ることもできる。同時に、それは松本さん自身にも入り込み、内なる世界を混沌とした状況にしている。
いくつかのヒントがある。
個展タイトルの虚実皮膜は、よく知られたとおり、事実と虚構の境界に芸術の真実があるとする近松門左衛門の芸術論で、松本さんが今回の制作の土台に据えた。
もう1つは、ミカンの皮で、松本さんは、これを型取りしたものを絵画のあちらこちらに貼り付けている。
松本さんが参照するのは、1963年に赤瀬川原平さんが制作した《宇宙の缶詰》である。
蟹缶の中身を食べた後に、外側のラベルを内側に貼り直し、密閉する。内と外が反転し、内側であるところの外側、つまり宇宙全体の缶詰ができる。
ミカンの皮のむき方、むいたときの形は、人によって千差万別である。その人にとっての宇宙、実体、そして人生はどこにあるのか。そんな問いかけがある。
つまり、ミカンの皮の向こう側である絵画空間という虚構に真実があるのではないかという逆説である。
その絵画はといえば、過去の時間が堆積したように混濁し、物質的である。底に沈澱した澱(おり)のようでさえある。
松本さんは、今の時間の流れを見つめながら、同時に、澱のように積層した時間から目を背けないようにしている。
床に置いた屏風仕立ての絵画1点は、全体の要所になる作品である。モチーフは、岐阜県山県市の大桑城跡(古城山)から南方を望んだ風景。
山並みに囲まれているダム湖と思しき白い部分は、実は、道路や田畑、民家などがあるところで、松本さんは、あえて人々の生活の営みを描かなかった。
人間の営みとは関係なく、存在する自然とその時間の流れ、リズムがテーマとなっている。
一方、床に置かれた舟形の大きな立体には、朽ちたソファーチェアが前後に2つ載せられ、中央の木箱を突き破って、ブルータスの石膏像が現れている。
混乱、不安、漂流、宿命、無常や生生流転、宇宙のリズムと時間の流れ——。
今回の松本さんの作品は、混沌とした世界と自分に起きていることをストレートに表現しているように思える。
いくぶん閉塞感を感じさせる展示である。堆積していく時間の中で流れを逆回転することはできない。松本さんには《いま、ここ》を見ることしかできない、との思いがあるのだろう。
できることは、時間の流れに身をゆだね、自身を含め、うつろい消えていくことを逆らわずに見ること、そして、たとえ流されようとも進むことである。
松本さんの作品はいつもエネルギッシュである。
舟の立体は、たとえ方向が定まらなくても、出発を暗示する。諦念の中にも意思がある。
古来、舟は、物質的なこの世から精神的な世界へと移動する手段である。これは、再生を期す魂の舟出である。
松本さんは、平面作品に海図、鉄のオブジェに測量機器のメタファーを与え、舟を混沌を進むビークル(乗り物)として位置付けている。
その意味でも、現代の混沌と再生がテーマだと言える。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)