gallery N(名古屋) 2021年10月16〜31日
前畑裕司
前畑裕司さんは1986年、名古屋市生まれ。2004年、旭丘高校 卒業。愛知県立芸術大学美術学部日本画専攻卒業、同大学院修士課程日本画領域修了。
gallery Nでの個展は2011年が最初。東京のgalleryN神田社宅を含めて7回目だが、名古屋では、5年ぶりとなる。筆者は作品を初めて見る。
大学では日本画を学んだが、活動の場を現代美術にシフトさせた作家である。日本画の岩絵具を使った絵画を中心に、立体、インスタレーションも手がける。
5年ほど前から 「JAPANESE PAINTING ?」という日本と絵画をめぐるテーマに取り組んでいる。
筆者は、1990年代に新聞社の美術記者として、日本画の3団体、日展、院展、創画会をよく取材した。
片岡球子さんも高山辰雄さんも平山郁夫さんも自宅や美術館などでまとまった時間、インタビューさせていただいた。当時はまだ、そういう時代だったのである。
なので、前畑さんが感じたであろう、日本画壇の閉鎖性もよく理解できる。前畑さんは、そうした日本画のムラ社会的なあり方を外から見つめることで作品化しているところがある。
日本画(日本絵画とは異なる)は、よく言われるように、明治20年代から30年代にかけて、それまでの日本の伝統的な諸流派(狩野派、円山・四条派、やまと絵など)を総括しながら、西洋絵画をも摂取して、その西洋流の油彩画への対抗軸の概念としてつくられたスタイルである。
日本画滅亡論がいわれた時代もあったが、1980年代以降は一部の日本画が現代美術へと接近する、あるいは、大文字の「絵画」として評価される中で、それ以外の日本画がより閉域に収束していった印象を筆者は受ける。
国内で明治時代以降に描かれるようになった西洋風の絵画は、「洋画」として日本化されて展開し、多くは欧米の近代美術のエピゴーネンとして漂流したので、結果、「日本絵画」「西洋絵画」「日本画」「洋画」「絵画(いわゆる現代美術を含む)」など概念が錯綜した状態のまま現在に至っている。
洋画も日本画も日本人による絵画であり、現代美術としての絵画もそれを描いたのが日本人なら、日本人の絵画である。
素材的にいえば、日本画は、和紙や絹に岩絵具などの顔料を膠で定着させることが基本的な性質となる。
だが、画材やモチーフが広がっていくと、内破する緊張感が高まるから、こうした区別も意味をなさなくなる。
結果として、公募団体に入るか入らないか、とどまるか出ていくか、現代美術の画廊で発表するか日本画の画廊で発表するかという話になる。
前畑さんは「公募団体に入らず、現代美術の画廊で発表する」を選んだが、そうでありながら、岩絵具にはこだわっているのである。
「日本画とは何か」「日本人の絵画とは何か」「日本の絵画とは何か」——。
前畑さんのテーマである 「JAPANESE PAINTING ?」 は、そうしたやっかいな問いを含んでいる。
前畑さんは、多くの先達も問うてきた問題を受け流すことなく、日本画からはるか遠くに離れることもなく、あえて日本画に外側からアプローチすることで、この問題に反応している。
そうすることで見えてくる「日本画」「日本」「日本人」「美術」「絵画」がテーマだともいえるだろう。
大学で日本画を学びながら、制度性に違和感をもち、自分の中にアート(欧米)への憧れがあることにも気づいた(筆者は、横山奈美さんを思い返した)。
前畑さんは、岩絵具で描いた「日本画」をあえて現代アートに照らし合わせる。閉じた「日本画」を「絵画」という大きなサークルの中に入れてみる。
SOUVENIR
今回展示された絵画は、主に日本の観光地のポストカードと土産物のペナントがモチーフになっている。
「JAPANESE PAINTING 」という虚構的、仮想的なテーマを、日本人なら誰しもが「日本」を感じるであろうという観光地の絵葉書とペナントを描くことで問い直している。
姫路城と桜、清水寺をイメージした絵葉書の絵画は、いかにも日本的で、「JAPAN」の文字も見える。ペナントの絵画には「皇居」「東京」などの文字や東京タワーの図柄がある。
画材は、日本画の岩絵具。支持体は、絵葉書とペナントの形に合わせ、矩形と変形のパネルで、一部は和紙を貼り、ほかはそのまま板に描いている。
これらは、観光地のポストカードそのもののイメージ、ペナントそのもののイメージである。
つまり、岩絵具で描いた、言い換えると日本画風のスタイルで、いかにも日本的な記号としてのイメージを現代アート風にした作品である。
さらに、前畑さんは、それを欧米の現代アートの絵画史に接続させている。
「JAPAN」などの文字が入ったポストカードのイメージを、前畑さんは、1960年代以降、言葉と広告媒体のイメージを用いた米国のコンセプチュアル・アーティスト、エド・ルシェの絵画を想起させるように描いている。
ポストカードの一部をトリミングした作品では、鳥取砂丘と海の境界部分を、2つの色面に分割された抽象絵画にし、「OF BEPPU」は、米国のコンセプチュアル・アーティスト、ローレンス・ウィナーのタイポグラフィが意識されている。
やはり、絵葉書をトリミングして描いた絵画で、走る自動車のブレを表現した作品もある。
これらの作品は、ポストカードやペナントのイメージであるとともに、そのイメージが支持体の形と一致した物自体としても存在している。
つまり、絵画でありながら物であり、いかにも日本的な絵葉書やペナントが十分な厚みをもったパネルとなって、看板のようにさえ見えることから、なかりキッチュである。
それは、どこか神格化された「日本画」を引きずりおろす揶揄、あるいは自分が学んだ日本画への近親憎悪とも、現代美術へのあこがれとも取れる。
その屈折の中に、日本と絵画、イメージをめぐる問題意識が孕まれている気がする。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)