L gallery(名古屋) 2019年10月12〜27日
小澤さんは、1981年、浜松市生まれのアーティスト。名古屋のL galleryや、岐阜のなうふ現代での個展や、グループ展などで発表を続けている。
人から譲り受けたもの、拾ったもの、不要なものとして回収したもの、あるいは、ごみになるものを素材に作品を作っている。
生活環境が変わり、自然が近くなったせいか、最近は、花や、ハチ、タマムシ、チョウ、ガ、トンボなど自宅周辺にいる昆虫、ヤモリも素材になった。
他にも、自分の髪の毛、自身が結婚したときのパーティードレス、交通事故で散乱した破片、つけまつげ、つけ爪、紐状のものなども素材になっている。
小澤さんはそれらを立体やインスタレーション、平面などにして見せる。それぞれの素材は、不要になったものという括り方もできるが、例えば、糸くずや虫の死骸など、もともと不要なもの、生き物もあるし、物というより、髪のように体の一部だったものもある。
これら多様な素材は、人間から見て「役目を失ったもの」「役目があるものから切り離されたもの」と、小澤さんが感じたものという言い方ができるかもしれない。
あえて、そういうものを素材にしているのである。そして、もっと言えば、ほとんど素材そのものが作品である。
ツユクサやバラ、あるいは、数多くの昆虫の死骸を散りばめ、平面作品にしたものなど、同種のものを集めて展示したものがある一方で、ケイトウの1つの茎(5つの花穂)、1匹のセミ、1つの竹の根っこなど、1つの素材で作品にしたものもある。
以前から、紐状のものをアクリルボックスに詰めるなど、素材に応じ、多様な展示方法をとってきた。
今回は、石粉粘土で固めてから、樹脂でコーティングし、素材の一部が隠れるようにした立体、平面の作品が中心。つまり、素材そのものをできるだけ生かし、固めたものという言い方がふさわしいかもしれない。
役目を終えたものが素材というのは、残酷な言い方である。死んだも同然だと言われかねないものだからである。
果たして、それらは、かつては役に立っていたものだが、今では、もう役に立たない。元気に動いていた頃、呼吸していた時、生気を放っていた時、有用なものとして使われていた時の様子、状況について想像力を掻き立てるばかりである。
これらの素材は、本当のごみになって、どこかに行って燃やされてしまえば、本当にオサラバである。あるいは腐食し分解してしまえば土に還る。
小澤さんは、オサラバにせず、そのギリギリの際(きわ)にある物を凍結するようにとどめる。とどめて加工はほどほどに造形化する。《ミイラ》のようだと言えなくもない。
例えば、2014年から制作しているシリーズ「Teddy Bear」は、洗濯機の内側に付いたくず取りネットにたまった糸くずで作ったテディ・ベアだ。
糸くずは、捨ててしまえば、ごみとなって、どこかに行ってしまうが、まとめてとっておけば素材になる。
だから、小澤さんの素材は「ごみ」ではない。あるいは、いったん、ごみになって、後になって本当の「ごみ」になる寸前で助け出されたものもある。
生死の際にあったものをすくい上げたもの、生死の境界にあったものだとも言える。
そんな小澤さんの作品は、どこか不気味である。制作の少し前までは生きていた昆虫の死骸はもちろんそうだし、ドライフラワーにして材料にした花も生から死へと向かっていったものである。
ボルタンスキーの作品の古着が死の影をまとうように、古い紐も衣類も、誰かが使っていたつけ爪もつけまつげも、体の一部だった髪の毛も、全て生きていたとき、使われていたときを想起させることで、役目を終えたこと、つまり、現在の《死》を強く意識させる。もっともっと時間が経過していけば《ミイラ》になるものである。
「イキテイタ」ときに近い容姿で提示され、死んでいるのに生を想起させて再帰する。これはゴーストのようで不気味である。
生のすぐ際に、身近なところに、死がある。忘れていたいもの、意識に上げないようにしたいことである。フロイトも「不気味なもの」のことを書いている。
小澤さんの作品が美しいかと言えば、必ずしもそうとは言えないと思う。でも、紛れなく言えることがある。
それは、強さである。生きていた時の強さ、使われていたとき、役に立っていたときの強さ。エフェメラルだけど、強く存在したということである。そんな生への作者の思いがにじみ出る。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)