空間にわずかに手を加え、場の再定義を試みる—栗本百合子さんの仮設空間は、足し算というより引き算としての作業でつくられている気がする。そうした行為はあえていえば、「清掃」や「補修」、あるいは「遺品整理」といえなくもない。栗本の作品は必然的に空間を片付ける、修繕するという行為を伴うからだ。それは、空間を「むきだし」にする行為でもある。
「栗本百合子の絵画と空間-はじまりのまえのはじまり- 2023年10月10-28日 名古屋造形大学ギャラリー」も参照。
2011年11月のプロジェクトで、栗本百合子さんが挑んだのは愛知製陶所(愛知県瀬戸市)の旧・製土施設。昭和三十年代に最盛期を迎えた後、衰退した輸出磁器などの一貫製造に使われ、長年放置された工場敷地内の地下空間だ。建物と建物の間にある狭隘なスペースにある開口部が地下に下りる入り口。階段を下りると「ドク、ドク、ドク」と心臓が血液を循環させる鼓動に似た音が響いていた。ニシテツロウさんが胎児が母親のおなかの中で聞く鼓動をイメージして提供した音だ。
数人しか入れないほどの狭い空間には、粘土と水を混ぜる深さ三メートルの貯蔵槽や、泥しょうを吸い上げるポンプなどの残骸が残り、パイプもつながれている。パイプは赤または青に塗られ、血管の動脈と静脈を類推させる。栗本さんは、鋳込みのため、泥しょうがパイプを通って排出され、再びその残余が戻ってくるこの小さな空間を心臓に見立てた。屋外の一部のパイプも赤、青に塗られ、泥しょうが血液のようにプラント間を行き来しているかのように仕組んでいる。
栗本さんの作品は、どこからが制作で、どこまでが元の建造物や施設、備品であるのかがおよそ不明瞭で、判然としないことが多い。既存の空間への作為が抑制されているだけに、作品はより曖昧さを帯びずにおかない。言い換えると、栗本さんが、遺された場を片付ける、建築構造や備品、光に最小限の関与をするとき、我々に提示されるのは、そこに元あった空間でも「これが作品だ」と自己主張するものでもなく、むしろ、シンプルで曖昧であるがゆえに、逆説的に時間にさらされた赤裸々なもの、純度の高い空間が「呼び掛け」てくるものなのである。
それはむしろ仮象に近いもの。「清掃」や「補修」、あるいは「遺品整理」によって、「むきだし」にされた空間は、堆積した過去の時間に意識を向かわせ、その空間を赤裸々な仮象としての場に横滑りさせる。
今回、その仮象は繁忙を極めた過去の工場の時間が重なり合う白昼夢のようなイメージとして「呼び掛け」てきた。胎児が聞く鼓動と心臓のアナロジーである製土施設、暗い水をたたえた貯蔵槽や廃虚的な空間が生(命)と死の強烈な対比/循環を意識させ、そこを中心に赤、青のパイプでつながれた工場全体がまるで有機的な一つの身体であるかのような仮象、いわば陶磁器産業の遺産の幻影の中に迷い込ませた。
本稿は芸術批評誌「REAR」(2012年27号)に掲載されたものに加筆修正したものです。