ガレリア・フィナルテ(名古屋) 2019年10月15日〜11月2日
倉地比沙支さんは1961年、愛知県生まれ。1984年、愛知県立芸術大学美術学部絵画専攻油画卒業。その後、同大学院美術研究科油画専攻修了、同大学院研修生修了。2021年の2人展のレビュー「知覚の深度 植村宏木、倉地比沙支 ライツギャラリー(名古屋)で6月5日まで」も参照。
倉地さんの版画は、1990年代後半ごろから目にしてきた。当時は、リトグラフとエッチングを混合したリトエッチングという技法で、粒子感がする、ざらついた肌合いで、さまざまなイメージを作品にしていた。
それらの作品では、画面の肌理、質感も重要な要素だったが、どちらかといえば、独創的なイメージの方が印象深く、キマイラのように複数の物体が合体したようなグロテスクな異形、シュールレアリスム的な奇妙なオブジェクトが際立つ作品として記憶に残っていた。
今回の個展では、そうした物体がほとんど消え去り、驚きとともに作品に見入ることになった。
砂のようなオールオーバーな画面、海なのか川なのか、波立つ水面のイメージ。所々にオブジェクトの破片のようなものは残っているものの、それは主役の座を譲り渡している。いわば、かつてのような具象的な対象物は希薄になっている。
展示も、額装した版画を横一線に並べる一般的なやり方ではない。大小の作品が空間の中で高低を変えて展示され、一部は縦に二段積みの展示になっている。作品自体がオブジェクトとしてインスタレーションになっている印象が強いのだ。
このイメージの変容、それとともにこれまで以上に強く感じられる皮膚感覚、肌理の意味合いは何であるのか。
版画作品となると、どうしても構えて見てしまい、技法である版のプロセスから入ろうとしがちで、質感は技法に依存すると考えてしまう。それは、ある意味で、その通りなのだろうが、今回の個展を見ると、倉地さんにとって、質感のありようはもっと複雑で、質感が技法だけに依存しているわけでは到底なく、さりとてイメージに従属するのでもない。
倉地さんにとっては従前、質感そのものがイメージと分かち難くあるものとして追究されていた。もっと言うと、質感そのものが追究する対象であったことが分かる。
描いたイメージと別のイメージや質感の合成、加工、加筆と、画像データの出力、そしてさらに手彩色、線を引くこと。 パソコンを使い、さまざまな実験的な試みが繰り返される。
制作の過程は、個々の技法の効果を見えなくするほど複雑で、全体として膨大な時間をかけている。
パソコンによる制作は、イメージの薄膜を操作するためでなく、重層的な手作業をして豊かで精細な肌理、すなわちイメージの厚みを生み出すためのものであって、それゆえに、そのイリュージョンが質感、質量、深度を感じさせるのである。
さて、そうした中で、オブジェクトが消えた今回の作品である。倉地さんがモチーフにしたのは、まさにマチエールそのもの、クリスピーな乾いた砂地である。
故郷である愛知県扶桑町の、木曽川に近い場所には、クリスピーな土壌、いわば、粒立ってざらついた砂地と、その砂地の下層には、カリッと乾いた表面とは裏腹に、地中を浄化するような伏流水がある。それらは、倉地さんにとっては、原風景のようなイメージなのである。
個々の作品は、もちろん単品でも作品として成り立っているのだが、作品のサイズや展示の高さ、組み合わせ方、重層性などを考えながら、全体として、茫漠とした牧歌的な風景をつくっているのが興味深い。これまでのシュールな作品とは大違いである。何か故郷を思う心境があったのだろうか。
面白いのは、クリスピーな砂地だけでなく、併せて、水の動きをイメージした作品も展示していることだろう。
海なのか川なのか、波立ち、飛沫を上げ、豊かな水量をたたえている。そうした水をあえて、乾いた砂地の上に重ねて展示するなど、なかなか心憎い。
空間としての粒立った砂地と水の動きとともに、それらの流動化したカオスの中に浮かび上がる、さりげない形象も見逃せない。
クリスピーなマチエールの表面に下から伸びた短い線は、農地の上に置かれた鍬。あるいは、海に浮かぶ島影なのか、建物なのか。流動化した中から不意に現れたようなイメージ・・・。
記憶の断片のような不明瞭な形象が見る者の深奥と触れ合って想起の連鎖を生むが、意味や叙情には回収されない。
ただ、物体のイメージは後退しても、というより、イメージが薄れたがゆえに、倉地さんの作品は、牧歌的な大地、懐かしい感傷的なものだけでなく、堅牢なマチエールと質量感とともに現実社会のシリアスな負荷も感じさせる。
懐かしい砂の原風景と、生命の源の水の流れ、記憶の断片。幼い時の記憶の深淵から立ち上がってくるイメージが重層的な空間となった展示を眺めると、倉地さんの今回の個展は、手触りのある肌理、強靭な表面を追求しながら、空想の世界から、記憶と現実、つまりは「生」そのものが向き合うところに接近したように思える。