masayoshi suzuki gallery(愛知県岡崎市) 2020年3月14~29日
愛知県岡崎市を拠点に制作する彫刻家の国島征二さん、この3月で愛知県立芸大を退任する彫刻家、 環境造形アーティスト、土屋公雄さんの二人展である。
土屋さんは、昨年11月から今年3月初めにかけ、既に3つの記念展覧会を開催。
愛知県立芸術大学サテライトギャラリーSA・KURA(名古屋)での「丘の上のキャンパスから」展、豊田市美術館ギャラリーでの「土屋公雄 愛知芸大教授退任記念 森北伸との2人展『月と家』」、「愛知県立芸術大学退任記念 土屋公雄 ときめきの庭/記憶の部屋 古川美術館 分館 爲三郎記念館」である。
愛知県立芸大サテライトギャラリーでのグループ展、豊田市美術館ギャラリーでの森北さんとの2人展、古川美術館での和の空間、日本庭園と対話する個展のいずれも見応えがあった。
今回は小品を中心とした展示ではあるが、土屋さんの愛知との関わりを振り返るにふさわしい展示となっている。
国島さんは、1990年、土屋さんが遠藤利克さん、川俣正さん、戸谷成雄さんらとともに出品した米国ロサンゼルス・カウンティ美術館でのプライマル・スピリット展で、作品を通じて土屋さんを知った。
土屋さんによると、当時、ロサンゼルスにいた美術家、長澤伸穂さんが国島さんのロスのスタジオに連れて行ってくれたという。これが二人の交流の始まりである。
1996 年 には、東京・原美術館での土屋さんの個展「虚構と記憶」のオープニングに、masayoshi suzuki galleryと同じ愛知県岡崎市にあったノブギャラリーの鴨下延弘さんが出席。
国島さんからの紹介ということで土屋さんを訪ね、土屋さんも国島さんと同様、ノブギャラリーで展覧会を重ねることになった。
2008年、土屋さんは愛知県立芸大の教授に着任。だが、その前年、鴨下さんは鬼籍に入っていた。masayoshi suzuki galleryのWEBサイトには、こう書いてある。
「今回の岡崎における国島征二と土屋公雄の二人展、鴨下がいればどんな反応をしただろうか。お酒を片手に満面の笑みで語っている姿は想像に難くない」
2002年7月、1989年3月にオープンした鴨下さんのノブギャラリー(当時、JR岡崎駅近くにあった)がいったんクローズした。最後の展覧会は国島征二展。筆者の当時の記事には、「前身を含むと約18年間、地元の人たちに美術に接する喜びを与えてくれた。地域にこだわりながらも視野は広く、姿勢は一貫していた」とある。
画廊閉鎖の理由は、画廊があった敷地が区画整理の対象になったこと、当時の経済の低迷で経営が圧迫されていたことである。
鴨下さんは当時、「画廊と作家は一心同体。画廊は作品を展示するだけでなく、芸術と文化、社会について考える場所」と話し、「力を付けて再起を期したい」と続けた。
鴨下さんは2006年、名鉄東岡崎駅の近くにギャラリーを再開した。しかし、翌2007年4月、闘病の末に60歳で亡くなる。
4月下旬にギャラリーの活動にも終止符がうたれた。その年6月には「ギャラリー 葵丘(ききゅう)」(愛知県岡崎市明大寺町)で、「ノブギャラリーと作家たち ― 鴨下延弘追悼展 ―」が開かれた。
今回の二人展のオープニングでは、鴨下さんの写真が飾られ、参加者で献杯。
土屋さんは、「自分の退任記念展というより、どうしても国島さんとの二人展をやりたかった。鴨下さんとの出会いをつくってくれたのも国島さんだった」と語った。
国島さん、土屋さんは二人の出会いや、鴨下さん、ノブギャラリーの思い出を訪れた人たちと懐かしそうに振り返った。
作品は、二人の代表作が対話するようにメーンの会場と地下スペースに展示された。
1937年生まれの国島さんは、いくつもの重病を乗り越え、今年83歳を迎える中で精力的な制作を続ける。
今回は、アルミニウム合金の重層的な直方体に自然石やブロンズなどを組み合わせた「積層体」シリーズ、身近な物を透明樹脂、鉛によって記憶とともに封印した「Wrapped Memory」シリーズを中心に展示した。
「積層体」では、都市の自然が記号化、抽象化され、分解可能な構造体によって精妙な美へと高められ、「Wrapped Memory 」では、ラッピングされた文庫本や時計、絵具、ペインティングナイフ、釘などが、日記のような生の記録として微温とともに息づいていた。
一方、土屋さんは1955年、福井県生まれ。「所在・記憶・時間」をテーマに、流木や自然木、解体された家屋の廃材や、焼尽した灰などを構築した作品を展開してきた。
今回は、黒御影石などの彫刻をステンドグラスのようにアンティークガラスで包んだ作品を中心に出品した。
小さな作品だが、漆黒の塊とそれを包む透明ガラス、半透明な磨りガラスが見る者の眼差しを引き寄せては撹乱し、遠い記憶、時間の重なりと人間との複雑な関わりを問いかけるように静かに存在していた。