工藤千紘
工藤千紘さんは、1989年、青森県出身。2014年に名古屋芸術大大学院を修了し、愛知を拠点に制作している。
経歴をみると、2014年ごろから個展を開き、グループ展にも参加。「損保ジャパン日本興亜美術賞展」、「シェル美術賞」展に出品するなど、精力的に活動している。
2021年 ギャラリーヴァルール(名古屋)「A」
ギャラリーヴァルール(名古屋) 2021年8月28日〜9月25日
昨年の同じ画廊での個展と比べると、随分とよくなっている印象を受けた。
しなやかに伸びる線に残っていたぎこちなさがなくなり、全体のバランスが取れるようになった。
今回は、人物といっても、ほとんどの作品が顔を描いている。
単純化して、おおまかに全体をつかみながらも、不自然さが消えて、輪郭となる線や、形が、矩形の枠と均衡が取れるようになっている。
つまり、硬さ、わざとらしさが消えて、洗練されてきた。
たとえば、顔を左向きにして、首を異常に伸ばしても、それらの平滑な部分と、右に伸びる髪の部分のストロークの緊張関係がとてもいい。
あるいは、右向きの顔を少しうつむき加減にして、目を閉じているように描いた作品では、髪の部分のストロークが左下および右下に荒々しく流れることで、秩序と乱調をはらみながらも矩形と緊張関係をもって収まるなど、構図と線、形への意識が昨年より格段に高くなっている。
ほかに注目したい点が2つある。
1つは、伸びやかなストロークを重ねるように描いた髪の毛の部分がアクセントとなって、絵画全体を強く、動感のあるものにしていること。
多様な色彩が折り重なった流れるような色彩の筋は、パワフルかつ美しく、単色に近い背景や顔と対比される。
昨年の作品の髪の部分が、繊細に色を塗り重ねてニュアンスを出したのとは大違いである。
即興的で大胆なストロークなのだが、それが乱雑に過ぎることなく、絵画空間に寄与しているのが見て取れるのである。
もう1つは、絵具を塗り重ねる中で、グリッドを下層に描いていることである。
グリッドは、髪の部分にはっきりと格子状のものが確認できる場合もあるが、注意して見ないと分からないように下層にうっすらと透けて見えるものもある。
グリッドは、近代のアバンギャルド芸術に特有な指標とされ、現在にいたるまで、数多くの絵画に繰り返し現れる。
昨年、工藤さんの作品を見たときは感じなかったが、今年は、絵画の矩形と、それとの関係において引かれた線や、幾何学的な形、面の分割、抽象性が看取された。
グリッドが現れたことも違和感なく、絵画の要素として機能している。
絵画空間の全体に意識がいきわたるようになり、ストロークのコントロールや絵具の塗りもよくなっている。
2020年 ギャラリーヴァルール(名古屋) 影踏みをしなくなった日
ギャラリーヴァルール(名古屋) 2020年9月1〜26日
主に人物をモチーフに、水彩にアクリルまたは油彩を重ね、薄く透明感のある色彩が層をなすように描くスタイル。好感をもたれる作風らしく、今回の個展でも、筆者が会期半ばあたりに訪れた際には、既にほとんどが売れていた。
他のモチーフの作品もあるが、強く印象に残ったのは、顔を題材にした作品である。とにかく、優しい画風である。穏やかさと柔らかさ。これが人気を呼ぶ理由であろう。
たおやかな感触。ニュアンス豊かな色彩。シンプルに描かれた線。表情は、情感がとらえがたいように抽象化され、目や鼻、口など顔の部分も極端に単純化されている。
さらに、穏やかな光と陰影が覆っているようでもある。陰影の濃度はさまざまだが、木漏れ日のような光と陰が色彩と一体になって浸潤し、その女性は、こう言ってよければ、この世ならざる、夢の中にいる印象さえある。
人間は、小さな死ともいうべき眠りを繰り返し、死へと向かう。でも、死は終わりを意味するのだろうか。死んでも、その人の面影、記憶は生き続ける。
会場に置いてあった工藤さんの作品集の中に、名古屋芸大の恩師と思われる画家、中澤英明さんの文章があった。
工藤さんの作品を「面影」だと言っているが、的を射た言い方だと思う。まさに面影には、部分(目や鼻、口など)がない。面影は、あいまいであると言い換えることもできる。工藤さんの作品の顔は、まさにそうである。
1996年、三重県立美術館で、 桑名麻理 学芸員(当時)の企画によって開かれた「子どもの情景展―かわいい but とらえがたき」展を思い出す。
この展覧会のカタログの表紙は、奈良美智さんである。もう24年も前の展覧会だが、奈良さん以外に、中澤さんなど、多くの作家が出品していた。
中澤さんもまた、テンペラ技法で時間をかけて、子供の顔を描いてきた作家である。筆者は、工藤さんの作品に少し中澤さんの影響を感じる。そして、「子どもの情景展」の表紙になっていた奈良さんも、工藤さんに大きな影響を与えた。
WEBサイトに掲載されているタグボートのインタビューで、工藤さんは、11歳のときに初めて奈良さんの絵を見て、(鬱々とした自分も)「生きてていいんだと思った」、(自分も)「絵を描くんだと思った」と答えている。
水彩で描き始めて、アクリルや油彩を重ねていく。それは、まさしく面影のようにおぼろげである。
柔らかな光、かすかな記憶が幾重にも降ってきて、重ねられていったようだ。そのひそやかさが癒やしにもなる。
大作では、カーテンと影をモチーフにした作品があった。
また、ゲオルク・バゼリッツのように人間が逆さまになった作品も。
工藤さんの作品から、不確かな存在、強い自己ではなく、光や影、記憶と感情、傷つきやすさが積み重なったような弱い人間像を感じる。生と死を、人間の深い場所にある目に見えない存在を感じる。
肉体的な人間、現実の生のみがリアリティーの全てではない。そう感じさせてくれる作品である。
ティク・ナット・ハンの本に書かれていた「来ることもなく去ることもなく」という言葉が思い浮かんだ。
人間の本質は、その身体だけではない。面影、記憶、精神性や思いが、その人の本質として継続する。人間の本質は、来ることもなく去ることもなく、さまざまな形として、現れる。
工藤さんの描く人物は、肉体を超えた、生と死を超えた、記憶と感情、光と影が、ある条件とともに見えた新たな現れのようである。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)