2020年8月8日の中日新聞(WEB)などによると、陶芸の枠を超えた先鋭的な表現で知られた陶芸家、鯉江良二さんが2020年8月6日、老衰(咽頭がん)のため死去した。82歳。
1938年、愛知県常滑市出身。常滑高校窯業科を卒業。タイル工場に5年間勤めた後、1962年に常滑市立陶芸研究所に入り、66年に退所、独立開窯した。
伝統陶芸に通じる器物から、現代陶芸のオブジェ、あるいは現代美術の範疇に入るインスタレーション作品まで、ジャンルを超越した多様な作品を、パワフルに、自由奔放に制作した。
陶芸の権威主義に抗い、人間が立つ大地、そこに長い年月をかけて積層された土素材を焼成するという陶芸の古来からの制作過程を、根源的なところまで掘り下げ、現代社会批評、人間存在、文明史まで見据えた作品を展開。衛生陶器を粉末にした粒状素材(シェルベン)を押しかためて焼成して自分の顔をかたどった「土に還る」や、反戦、反核をテーマにした「チェルノブイリシリーズ」「ノー・モア・ヒロシマ、ナガサキ」などを発表した。
陶芸によって立ちながら、土素材の構築、焼成というプロセスを突き詰めた。
焼き物とは何かという問いかけは、常に常滑での原風景と自分が体験してきた労働、生き方、具体的な現場から立ち上がったもので、土以外のレンガ、石、鉄板、木などを地球上の物質として土と同様に焼成することが、結果として、陶芸を幅広い視野、文明史からラジカルに捉え直すことになった。
そこには、お堅い、お高くとまった芸術を反語的に捉え返している立ち位置もあった。
また、愛知県立芸術大教授などとして、後進を育成した。
「あの手この手を使って、たくさん作ってさ、一生かかって、何か、自分の思っていることが一つできれば、それでいいんじゃない。で、あの人は死にましたなあと、人に言われる。どうってことないよ」。
金子賢治さんの著書「現代陶芸の造形思考」所収の「誇り高く、土に還る—鯉江良二論」(初出・『鯉江良二作品集』、講談社、1994年)の冒頭に、そんな鯉江さんの言葉がある。鯉江さんのカッコイイ人生の仕切り方として、金子さんが「ずっと自由形でいたかった 鯉江良二語録」(『季刊銀花75号』、文化出版局、1989年)から引用した言葉である。
鯉江さんは1960年代、八木一夫、山田光など、京都の前衛陶芸グループ「走泥社」と交流。また、東京では、当時の現代美術の最前線に触れている。原風景としての常滑、人間存在としての労働、生きること、保守的な陶芸界への反発、焼き物への根源的問いかけ、とりわけ焼成の意識化、現代美術の影響が、一体となって、とてつもなく力強い制作へと動かした。
ご冥福をお祈りいたします。
鯉江さんの追悼展は、「four次展Ⅲ L gallery(名古屋)で8月9日まで 伊藤慶二/国島征二/鯉江良二/田島征三」、「森岡完介『1975』版画展〜鯉江良二さんを偲ぶ〜 11月21日まで」「鯉江良二へのオマージュ展 ギャラリー数寄(愛知県江南市)で8月6-21日」など。