ガレリア フィナルテ(名古屋) 2020年12月15〜26日
ヒズミのキワ 2020年
1955年、神戸市生まれの小林亮介さんと、1972年、京都府生まれの吉岡俊直さんの2人展である。
小林さんは、名古屋造形大の前学長で、吉岡さんも、2014年に母校の京都市立芸大に移るまで、長く名古屋造形大で学生の指導に当たった。
それぞれを取材していたときには、気づかなかったが、2人展として見ると、両者の相性はとてもいい。
3次元の現実世界と2次元平面、イメージのリアリティーと虚構、デジタルデータの操作、世界の再構成など、2人の問題意識が響き合うところがあって、興味深い展示になっている。
ジョナサン・クレーリーになぞらえれば、2人に共通するのは、デジタル時代における「観察者」としての視点であろう。
世界が存在することの不思議さ、自分と世界との関係を2次元に回収するとすれば、どうすればいいのか。
3次元の地球を2次元の地図にしようとした人間が試みたように、視覚空間を平面にするとは、 世界をどう手元に引き寄せるかということでもある。
小林亮介
小林亮介さんは、筆者が知り合った1996年当時は、 3次元の空間情報を2次元像上に保存するホログラフィーの作品を制作していた。
その後、デジタル画像を加工する作品に移っていくが、世界という3次元空間を2次元平面に擬似的にどう変換させるかという関心では、一貫している。
今回は、大型の写真作品を2点展示した。
1つは、パノラマの風景写真で、もう1点は、大学のデッサン室を撮った縦長の写真である。
風景写真は、中国・広州の美術館での展覧会に参加した際、近くの高級住宅地の庭園を撮影した。
カメラを三脚で固定し、上下左右にパンしながら、1時間ほどで撮影した683ショットを合成したイメージである。
ここには、とらえどころのない自分の周囲の3次元の現実空間をどのように2次元の平面上に表現するかという問題意識がある。
一般に、写真は、数十、数百分の1秒というごく短い時間、1視点から撮影され、フィルムまたは撮像素子がレンズを通した光にさらされるが、小林さんは、カメラを固定したまま水平、または垂直にカメラの向きを少しずつずらしながら、画家が視線を移動させるように683の視線をつぎはぎにしているのである。
つまり、カメラで撮影していながら、カメラのパースペクティブとは異なり、絵画を描くときの画家の視点に近い。
もともとは、超高精細のきめの細かい画像を撮影することを狙って、視点移動による画像の集積を始めた。
このため、部分ごとに見ると、それほど違和感はなく、どこを見ても、正面画像に近い風景を見ることができる。
だが、全体を一望すると、おかしい。上や下にいくほど横方向に拡大されるように歪み、空間が間延びしている。
一方、大学のデッサン室を撮影した作品では、630の画像が合成されているが、加工の仕方はパノラマ写真とは異なる。
写真の中の石膏像が収納された戸棚の縦横が全て垂直、水平に交わるように、また、天井近くのパイプが水平になるように加工されている。
そのため、広角レンズで撮影したときに近く、周辺が歪んだ空間になっている。
視覚空間のリアリティーを求めることが、現実を歪ませた虚構によって実現されているという逆説。
小林さんは、画家が絵画を描くように、絵具の筆触を画像に変えて、それを張り合わせることで、3次元空間を2次元平面として作っている。
膨大な写真画像によるパースペクティブの遊びのような試みの中には、空間とはどうなっているのか、視覚のリアリティーと空間の歪み、3次元空間を平面化するときの正確さについての問いかけがある。
特に注目したいのは、小林さんが、戸棚を構成するグリッド構造(格子)の縦横を、垂直、水平に一致させるようにしていることである。
グリッド構造は、アバンギャルド絵画のさまざまな画家に採用され、キャンバスの矩形を絵画空間に反映した指標として繰り返し現れてきた。
視点移動によるデジタル画像の集積によって「絵画」を制作する小林さんもまた、グリッドという幾何学性、抽象性、平面性という近代絵画の原理に則っている。
それによって、画面の中央部分は正面画像である一方、このデッサン室の画像の四隅は、広角レンズに近い歪みを持っているのである。
それは、リアルに近づけることがリアルから遠ざかることでもあるという背反するイメージのせめぎ合いでもある。
小林さんの試みは、自分と現実空間との関係、自分と世界との関係を視覚的な領域で確認する作業だと言ってもいい。
吉岡俊直
他方、吉岡俊直さんは、3次元空間のデジタルデータ化、解析と物質化をテーマにしたシルクスクリーン作品を制作する。
作品は、実在する対象物をデジタルカメラで撮影することから始まる。
1つの対象に対して、少しずつ自分が動きながら、つまりカメラポジションを変えながら、通常15〜50枚ほどの画像を撮影する。
カメラそのものを移動させるのが、カメラを固定する小林さんとの違いでもある。
電車の車窓から連写した画像、つまり、電車の移動に伴い、カメラの位置を変えた作品も含まれている。
さまざまな方向から撮影した写真データをコンピューターで解析し、3Dモデルに変換する「フォトグラメトリ」というソフトを活用する。
CGの中で、対象に対する視点の位置を決めることで、立体イメージが得られるというわけである。
こうして、フォトグラメトリによって再構成した3Dモデルによって、版画のイメージを生み出すのである。
3次元から2次元の画像データへ、そのデータから3Dモデルへ、それを2次元に変換した版画へ、という流れと言えば、いいだろうか。
今回は、映画館の座席、ビルの屋上、ボート、女性像などのイメージが出品された。
興味深いのは、現実空間を写真データを媒介して3Dモデルに変換したときに、ピントの甘さ、データの欠落等によって、立体イメージに「欠陥」が生じることである。
3Dの形態は再現されても、表面の質感や色彩、模様、表情を欠いた立体的なイメージなのである。
特に、フォトグラメトリは、表面のデータを取るのが苦手であるため、表面が溶解したような態様になる。
データの欠落によって、穴の開いた表面、ぬめっとした質感など、現れた3次元イメージは、不気味とも言えるものである。
それは、チープなプラスチック玩具のようなものへと変換され、リアリティーを欠損させている。
つまり、3Dの形態は抜き出せても、そこには破綻と歪みが生じ、現実空間がはらむ死角や影の部分、無地の表面、ピントが合っていない部分は、ぬめっとしてしまう。
小林さんが写真画像の集積によってリアルを目指したイメージが非リアルをはらんだように、吉岡さんの作品では、ディメンションを2次元から3次元に上げることが、逆説的に、作り物っぽいもの、不気味のものへと転換している。
小林さんは、いわば、現実の空間をモチーフにしながらも、自分で3次元空間をパッチワークして、現実を歪めながら、空間のリアリティーを探っている。
一方、吉岡さんの作品は、私たちが写真を撮ることで集めている画像データが、現実の3D空間としては不完全なものでしかないことを物語る。
こうして、2人の作品は、デジタル時代において、自分の身の回りの現実空間を観察し、2次元平面、つまり、イメージと絵画性について、視覚的冒険を企てているのである。