文字の様相—流れゆく時代、生まれくる言葉—グウナカヤマ・日野公彦による表現
Gallery NAO MASAKI(名古屋) 2021年7月17〜 8月1日
2021年4月に個展を開いたハシグチリンタロウさんもそうだが、Gallery NAO MASAKIで最近よく取り上げるのが、書を現代アートとして捉え直した作品である。
ハシグチリンタロウさんも、今回初めてこの画廊で展示されるグウナカヤマさん、日野公彦さんも、現代アートとしての書のコンペ「ART SHODO FESTA」の参加者である。
井上有一(1916〜1985年)の影響があり、文字を題材にしながら、書の枠を超えて自由奔放に表現するスタイルは、3人に共通している。
書については、筆者は、新聞記者だったころ、日展の書を毎年取材したことを除けば、ほとんど見たことがない。
その意味では、むしろ身構えず「アート」として見ることことができるのかもしれない。
ハシグチさんを含め、グウさん、日野さんの作品も、文字を母体とした即興的な造形表象で、そこに作者の生き方が反映されていると言って、あながち外れていないとも思う。
いわゆる前衛書のイメージでは、時間的な線の軌跡や、その造形性、墨と余白の空間の視覚的美しさが問われるのだろうが、彼らはそうした前提をも超えたところで制作している。
書を言語的なアートとして、破天荒な表現、生き方を剥き出しで提示しているような、実験的な作風である。
もっとも、コンセプト重視で時間をかけて制作するわけではなく、一気に書くわけだから、身心一如というのか、エネルギーと思考、感情が吹き出すように発現した作品ということが言えるのではないか。
日野公彦
日野公彦さんは1975年、北海道生まれ。二松学舎大学文学部国文学科卒。東京都在住。
ギャラリーの説明によると、子供時代は、喘息で小学校にあまり通えなかったこともあって、白戸三平の漫画や、昼ドラ、銀河鉄道999などのアニメを見て過ごした。
大学の書道部に入ったころ、コンテで書いた井上有一の作品に衝撃を受けたのが現在の作風のきっかけである。
現在は、紙に、三菱鉛筆のダーマトグラフという、ワックスを多く含んだ太線の色鉛筆で書いている。
日野さんの作品から、この筆記具は、とても自由度が高く、キレのいい線が引けるうえ、質感がドライで、重くならないことが分かる。
つまり、線に勢いがあるとともに、粘着感がなく、飄逸でしゃれた雰囲気が出せる。
空間に引かれたシンプルな線と、その線を稠密にした影で構成するのが基本的なスタイルである。
モチーフは、言葉そのものというより、風景の中の文字(文字がある風景ではない)である。つまり、その文字や言葉の概念、辞書的な意味ではなく、ある現代社会の風景という文脈に置かれたときの文字、言葉である。
日野さんの作品では、題材が、自ら紡いだ言葉、あるいは概念としての文字ではなく、風景の中にある文字、言葉であることが最も重要な要素である。
全体のイメージは、簡略化、デフォルメされ、漫画をも彷彿とさせるが、日野さんの題材の中心にあるのは風景ではなく、そこから切り取られた文字なのである。
サイン・看板など、コマーシャリズムに染まった都会生活で遭遇する言葉の断片からは、現代社会へのシニカルな批評性やユーモアも浮かび上がる。
風に飛ばされた張り紙の文字「WET PAINT」や、何気なく普段の生活の中で目に焼きついているスナックの看板「ニューフレンズ」、あるいは「セブン-イレブン」「スターバックス」「Uber Eats」などの文字が題材になっている。
普段の生活で出合った文字、 消費社会を象徴する言葉のほかに、テレビに映された写真の、ブラジル移民を乗せた列車に掲げられた言葉など、歴史的な題材もある。
いわば、日野さんに何らかのインパクトを与えた文字を概念ではなく、文字の強い存在感として、それが置かれた場所、空間、文脈として、書いていくのである。
日野さんの作品は、風景画ではもとよりないが、頭で考えたコンセプチュアリズムでもなく、言葉による意味やメッセージの押しつけでもない。
文字、言葉をこの現代の世界、社会の文脈とともに書く行為である。だが、同時に、日野さんの作品は、その文脈を知らないと楽しめないものではない。
社会や環境、都市空間の中で背景とともに切り取られた文字から、私たちは、日野さんの生の断片、都市の風景へのまなざしを感じるとともに、そこから、別の文脈へと、軽やかに想像力を働かせることができるのである。
つまり、ある文脈とともに切り取られた文字、言葉が、その文脈からずれる、あるいは、文脈との距離を伸縮させる、文脈を拡張する、文脈から飛躍したときに見せる意味性が面白い。
それは、現代の都市生活の文脈とともにある文字とのユニークな出合いであるとともに、意図せぬ文脈の遷移によって、そこから、人間と世界のあり方が暗示されることでもある。
グウナカヤマ
グウナカヤマさんは1975年、長崎県の壱岐島生まれ。現在も、島で制作する。
やはり、井上有一の表現に感銘を受け、墨と紙を使った表現を模索。最初は、自然豊かな環境を背景に、象形文字的な形の「鳥」や、甲骨文字や文字学を独学して制作した「月」「flower」などを中心に発表した。
その後、具象的なモチーフから、「無」「ALIVE」「ENVY」など、形がない抽象的なもの、心の中にある意識、感情へとテーマを展開させた。
また、近年は、画材を墨からペンキに変え、作品がカラフルになっている。
今回は、昨年から制作している「DIRT」や、それ以前の「flower」のシリーズが中心となる。
「DIRT」とは文字通り、 泥、汚物、塵などを意味するが、同時に、汚れながら這いずり回って、あがいている人間の姿、そうした生き方をも表している。
グウさんが考案した「DIRT」という文字は、矩形の下に、3、4個の円がタイヤのように連なった形、つまり、車のような形態をしている。
聞くところでは、グウさんはハンバーガーを販売して生活しているが、そのときのキッチンカーにも似た形態である。
そうした「DIRT」はグウさん自身であって、その記号的文字には、叫びのような感覚を喚起させる力がある。
「自分自身は泥のようにあがき這いずり回るしかしようがない存在であると感じた」。グウさんは、そんな思いから、「DIRT」という文字を書く。
「DIRT」は板材で組み立て、立体化もされた。グウさんはその中に入って、「DIRT」という文字と一体化し、街中を徘徊するという奇妙なアクションも敢行している。
会場では、アクションの記録映像を見ることができ、そのミニチュアの立体作品も展示している。
大胆で、はちゃめちゃな表現は自由そのもので、屈折感を含みながらも、とてもエネルギッシュである。
泥を意味する「DIRT」は、泥臭さ、地べたを這いつくばる下層、低級、屈折感のイメージでもあって、その意味では、かつてグウさんが書いた「 ENVY (妬み)」に近い。
そうしたボヤきのような言葉は、仏教でいうところの三つの煩悩「貪・瞋・癡(とん・じん・ち)」、つまり、人間の貪欲、怒り、愚痴とも重なるが、それをあっけらかんとぶつけるところに、ユーモアと人間味を感じる。
その「DIRT」の文字の形が、「flower」の上下ををひっくり返したような姿をしていることに注目したい。
この「泥」と「花」が反転しあっているという関係は、グウさんの世界観の両義性を表しているようにも思える。
「泥中の蓮」という、仏教に由来する言葉があるが、それは、蓮が泥の中で清らかな花を咲かせる、つまり、苦しみと欲望の中にあっても、清廉で潔くあろうとする意味である。
筆者は、グウさんの泥臭い表現、決してきれいとは言えない文字に、思い切りのよい覚悟ゆえの美しさと、世界を見るときの態度を見るのである。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)