愛知県立芸術大学サテライトギャラリー SA・KURA(名古屋) 2024年3月9~31日
城戸保
城戸保さんは1974年、三重県生まれ。2001年、愛知県立芸術大学大学院美術研究科修了。東京のHAGIWARA PROJECTS、名古屋のSee Saw Gallery + hibitなどで個展を開いている。
主なグループ展は、「令和4年度新収蔵作品展」(愛知県美術館、2023年、愛知)、「コレクション 反射と反転」(豊⽥市美術館、2022年、愛知)、「光ー呼吸 時をすくう 5 人」(原美術館、2020年、東京)、「カミノ/クマノ ー聖なる場所へ」(三重県立美術館、2014年、三重)、「放課後のはらっぱ-櫃田伸也とその教え子たち-」(愛知県美術館、2009年、愛知)など。「瀬戸現代美術展 2022」(菱野団地各所、愛知)にも参加している。
2024年3月16日-4月20日、名古屋のSee Saw Gallery + hibitで画家の長谷川繁さんとの2人展「ペイン天狗とホト愚裸夫」が開かれている。
展覧会の初日には、清水穣さん(美術評論家)を迎えて、トークが開催された。
「駐車空間、文字景、光画」
会場には、「駐車空間」「文字景」「光画」という3つのカラー写真のシリーズが展示されている。いずれも色彩や陰影が明快に出た、カラッとした風景である。
「駐車空間」は、自動車のある空間を撮影した風景写真であり、「文字景」は、広告看板、路面表示などの文字が空間に含まれる。
また、「光画」シリーズ(旧「光にかえす」シリーズ)は、撮影後、フィルムを巻き戻す際に、カメラの蓋をかすかに開けることで画面に光の層を介入させた作品である。
城戸さんの写真の特徴は、写真を絵画のように制作すること。風景を採取する撮影時点においても、デジタル処理などその後のプロセスにおいても、絵画とのアナロジーが意識されている。
一つには、4×5インチ(シノゴ)の大判カメラを使って、ティルトやシフトなどのアオリ表現を取り入れることである。これは、被写体を大きく見せたり、尊大に見せるために使われる撮影技法である。
城戸さんによると、水平と垂直を意識し、重心を探りつつ、光の現象と色彩が考慮され、フレーミングがなされる。
フィルムをデータ化する段階では、フォトショップによって、画家が絵画に向き合うように明度や彩度など色彩が操作される。
ただ、例えば、ジェフ・ウォールのように、撮影の前段階で空間自体を演出するようなセットアップはしない。あくまで自然の風景を対象に撮影する。
写真の迫真性、ドキュメント性に、アオリや色彩調整など、写真によって絵を描いているような「絵画性」が交差することで、ある種の均衡とそれゆえの違和感が感じられる写真が生み出される。
「光画」シリーズでは、作為と無作為、偶然と必然がせめぎ合うことで、ドキュメント性に光による色彩のストロークのような表現、色面のレイヤーが混入している。
清水穣さんはトークの中で、絵画と写真の、相互に対抗、相剋しながら展開してきた歴史的関係性に触れながら、絵画のように制作される城戸さんの写真作品にコメントした。
筆者なりに解釈すると、城戸さんの写真作品には、アオリや、フレーミングによって、車がミニチュアのように見えるなど、サイズ感が揺らぐものや、文字を導入することでキュビズム絵画のように複数のレイヤー(視点)を内包させることで、安定と不安定が引き合うようなものがある。
被写体、レンズ、像面が平行関係にある通常の撮影と異なり、大判カメラによるアオリ表現によって、現実空間を斜めスライスして平面に切り、ピントの合う範囲を自在にコントロールできるのである。
つまり、城戸さんの作品では、何気ない風景をありのままに撮影するドキュメント性に、アオリとフレーミング、色彩によって、わざとらしい雰囲気が介在し、自然でありながら人工的という奇妙な混在がある。
光画においては、そうした混在がカメラ装置への光の介入によってなされる。
城戸さんが狙うのは、主に郊外や住宅地の、決して美しいとはいえない、時に雑然とした風景である。セットアップはせず、日がな一日、「絵画的なもの」を発掘するために車を走らせ、決定的なシャッターチャンスを待って撮影する。
太陽が高いときは撮影せず、影が長くなるなど、風景が変化に富み、美しくなる夕方、朝に狙うのが基本。
そうした日常に見出される空間を、アオリやフレーミング、色彩・コントラストなどのデジタル処理によって捉え直すことで、アングルや構図、形、コントラスト、色彩、光と影、あるいはレイヤー、抽象性など「絵画」としての性質が浮かび上がってくる。
大学で絵画を専攻しながら、何を描いていいか分からなかったという城戸さんは、日常的な、なんということもない自然を撮影することを起点としながら、それを絵画として美的に表現する方法を探っている。
そのとき、絵画の本質ともいえるレイヤーや、形や色彩など絵画の形式的諸要素が立ち現れ、「写真」が「絵画」を生きるように、つまり「写真」と「絵画」を再解釈しあうような関係を見せ始める。
ドキュメントを排除することなく、それはそれとして写真を引き受ける。そうして、写真の中の絵画的な感性や、事実と虚構の関係を精巧につくりこむのではなく、それらがせめぎ合うような関係の中で可能性を見出そうとしている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)