ケンジタキギャラリー(名古屋) 2019年8月24日〜10月12日
東京・森美術館での大規模な塩田千春個展「魂がふるえる」(10月27日まで)を見た人も多いのではないだろうか。回顧展ともいうべき展示は、幼い頃や学生の時の絵画や地縁血縁ともいえる作家の背景から、大空間のインスタレーション、病気再発による葛藤がにじむ最新作や映像作品まで、幅広く見せ、ここ何年か前から多くなった舞台美術の展示も資料写真やマケットなどでしっかりフォロー。
作家自身の言葉があちこちに紹介され、作家の世界観が一つの太い幹のように提示されることで鑑賞の助けにもなっていた。
筆者は、塩田さんというアーティストの存在を、彼女がドイツに渡って数年後の頃、ケンジタキギャラリーでの取材を通じて大変よくしていただいた村岡三郎さんの京都精華大学の教え子として知り、同ギャラリーで個展を開くようになった頃から、作品を見る機会を得た。
そして何と言っても、第1回横浜トリエンナーレ(2001年)でのインスタレーション、すなわち、吊るされた巨大な泥まみれの服に水を流し続ける作品「皮膚からの記憶」で度肝を抜かれたのであった。
今回の名古屋での個展は、森美術館の展示内容とも響きあう、大変充実したものである。糸や編目状のものを張り巡らしたインスタレーションが1階と2階の窓側の部屋に配され、2階には、ドローイング、立体が数多く展示されている。
1階のインスタレーション《Direction》では、2艘の小舟が浮かび、空間全体に滴るように垂れ下がった黒い糸に包み込まれている。
糸は舟に絡み、その舟を浮き上がらせつつ、行く手を阻んでいるようにも見える。タイトルが「方向・方角」を意味する作品は多義的であるが、黒い糸は、塩田さんの作品では、さまざまなつながり、多様性の宇宙のメタファーでもあるから、先の見えない未来に向けての漂流とも受け取れるし、そうした危機の中、不確定な時空の中で孤絶にありながらも生きる私たち自身の意思と解釈することもできるだろう。
空間に線を引くように全体に張り巡らされた糸は、その空間の厚みを示すとともに糸そのものが人とのつながり、有形無形の宇宙との関わりの隠喩でもある。
2階のインスタレーション《地に触れるとき》は、赤いすり鉢状の網目が上方からいくつも垂れ落ち、その一つから伸びた赤い糸の先に、床(地面、大地と言うべきか)に置かれた足のブロンズがつながっている。
この赤い網目や糸は、人と人とのつながりとともに血や内臓、つまり身体的な内なる宇宙が反転し外在化したようにも感じさせる。
森美術館での展示とも重なるのだが、がんの再発によって死に直面したことで、宇宙とのつながり、身体的な要素がこれまで以上に作品に表れている。死と向き合う不安、世界とのつながりの希薄感にさいなまれる中で、大地を踏みしめる足、地面に接する足が、自己の実在感や生の確認、あるいは人とのつながりのあかしになっているのだろう。
そして、そうした意識は、塩田さんが子供の頃によく行った高知県の祖父母の在住地で、土葬された祖母の遺体の上の土に生えた雑草を引き抜く作業をした時に感じた生々しい死への恐怖に由来する、死後に還る大地、生命の起源である大地につながる。身体への意識は、ドローイングや、小品の立体にも色濃く反映されている。
小ぶりな立体は、舟形に細胞や内臓のような黒や白の球体が凝集して付着し、赤い糸が舟から垂れた作品、透明なガラスの中に内臓のような黑や赤、薄い赤の球状のものが集まっている作品がある。
壁に掛けられるようなかたちで展示された、案内ハガキの写真にもなっている作品「体内感覚」に見られるように、これらの小品も、作家が体の奥にある細胞や内臓を意識せざるを得ない、病気に直面した状況を想起させる。「体内感覚」では、赤いレース生地に包まれるような中にやはり細胞のような球体が凝集している。
部屋のような立方体に黒や赤、あるいは白の糸を張り巡らし、蜘蛛の巣のようなその中に本や薬瓶、子供の靴を閉じ込めた作品もある。
ドローイングも、塩田の世界を限られた線と色で表現。舟と網目などの線が赤や黒で描かれ、ここでも細胞のような凝集した部分が見られた。
ドローイングは、紙のほか、キャンバスに描かれた作品もあり、キャンバスのものは紙のドローイング以上の喚起力がある。ほかに赤い細い糸をキャンバスの左下方にネットのように張り、空間性を生み出している作品も印象に残るものだ。
ギャラリーによると、塩田さんのフランスの画廊が出品した最近のアートフェアの作品には、作家が自らの手をかたどったブロンズに細胞のような形態が加わった作品もあった。
塩田さんは、再発したがんの治療で、ベルトコンベヤーのようなシステムの中を移動し、強い薬に体を浸す状況について、心と体がバラバラに切り離される感覚、精神と身体の全体性を保てない心理を語っている。
2階のインスタレーション《地に触れるとき》の足のブロンズや、内臓、細胞のような表現に、作家自身の内なる身体感覚を見ることは間違っていないだろう。
森美術館の展示の最後には、塩田さんの娘と同じドイツの小学生に「魂」について聞いたインタビュー映像の作品があった。塩田さんが森美術館やケンジタキギャラリーなどでの展示に向け、いかに死と隣り合わせで制作してきたかが分かる。
先に書いたインスタレーション《Direction》、《地に触れるとき》にも関わる、自分はどこへ行くのか、死後、人はどこへ行くのかというテーマが静かに突き刺さってくる作品だった。肉体がなくなっても、精神や意識は残るのか。
その展示には「病気の再発を宣告されてからの2年間、個展の構想をしながら、私自身、生きることで精一杯だった」と、塩田さん自身の言葉が書かれていた。ケンジタキギャラリーの個展が、森美術館の大規模な展示と響き合うと言ったのは、そうした意味合いでもある