アートラボあいち(名古屋) 2020年1月11日〜2月16日
名古屋芸術大とあいちトリエンナーレ実行委員会が主催するグループ展。名古屋芸大の卒業生、在校生6人が出品している。5人は1980、90年代生まれの若手、画家の吉本作次さんだけが1959年生まれのベテランである。企画は出品者の一人の名知聡子さんが担当した。
タイトルにある「化現(けげん)」は、神仏が人々を救うために姿を変えてこの世に現れたものという意味で、名知さんは、この言葉に、作品が見る者に感得させる得体の知れないもの、言い知れぬものを重ねている。それは、表象されたものを超える何かかも知れない。
私達を取り囲む情報の海から離れてみる、SNS、ウェブサイトの検索によるつながりを解いて、作品と向き合うことで自分を見つめてほしい、自分の内面に降りてほしいとのメッセージがあるようである。本当の自分に戻るのは難しい。自分が身につけている鎧を脱ぎ、常識と言われているもの、思い込みに囚われた自分から、どう離れるか、そんなテーマと受け止めた。
展示の中心となるのは、企画者でもある名知聡子さんの作品である。名知さんと面識はないのだが、筆者がまだ「REAR」の編集をしていた十数年前の2000年代に若くして注目され、当時はスケールの大きな自画像を描いていたように思う。私自身のブランクが長いせいもあって、記憶が曖昧なのだが、細部まで克明に描き込んだ若い頃の作品には妄想のような世界と官能的なまでに強い女性的な思いの距離感の変化と揺らぎが染み込んでいて、美しくもどこか痛々しさ、傷つきやすい純粋な感情の生々しさが立ち込めていた。
それから十数年もたっているので、作品が変化するのは分かるが、ここまで変貌を遂げているとは思わなかった。今回の作品は、顔の正面像で、しかも具体的な肖像を結ばない。取材できていないのだが、これらの「肖像」がある1つのアイデンティティを持ったものなのかどうかも分からない。ただ、名知さんが年齢を重ね、人生の経験と成長の中で、自分の姿と向かい合ったこと、そのこと自体が作品に大きな影響を与えたことは分かる。そして、「鏡」に映った自分自身の内側を描くのにとどまらず、そうした自身を見る自分の視線、その変化に意識的でないと、こうした作品は描けないのではないかと思う。
油彩による大型の絵画と、別室にアクリルのドローイングを大量に掲げた展示がある。まず注目されるのは色彩で、現実の顔から離れた鮮やかな多彩な色によって顔が塗り分けられ、強烈な印象を与える。それぞれの色彩は濁らないように丁寧に描き分けられつつ、薄塗りでレイヤーが重なるようになっている。激しいストロークはなく、しなやかに薄く塗られたグラデーションや、滲みがうまく使ってある。
顔のそれぞれの部分が、実際の顔の形態、パーツ、組織ではなく、独自に腑分けられ、それらの部分が体の内臓のように多種多様な形態、色彩として組み立てられて有機的に構成されている。それはキマイラ、異形と言ってもよく、清濁さまざまなものを抱え込んだ存在ながら見る者に対話を求めてきている。名知さんの中にある得体の知れないもの、自分の中にあるまだ見ぬ自分、潜勢力のようなものなのだろうか。顔全体もインパクトがあるが、細部の生命機関、生き物のような表現、絵の具の層の透明感ある重なりがとてもいい。
吉本作次さんは、小部屋に吉本さんらしい2点を展示した。薄いカーテンをくぐって、薄暗い神秘的な空間で見るという、インスタレーション的な展示で、吉本さんとしては珍しい。森をモチーフに、80年代のニューペインティングの頃から続く荒々しいタッチの作品と、精緻に描きつつ触覚性のある作品との2つのタイプが展示された。いつ見ても、美術史や古今の絵画からの博学な引用を思わせる描きぶりで、観者の眼差しが絵画の中を探索できるような豊かな感覚を呼び起こしてくれる。
このほか、会場入り口に廃材や竹を使って立体を組み上げた浅井和真さんの構築物は、展覧会の入り口にふさわしい重厚で異様な景観を見せていた。金網に絡まる雑草や観葉植物を描いた絵画や立体、焼き物を並べた西山弘洋さん、吹きガラスによるガラスの球体や、破砕されたガラスによる盛り山などを出品した高木明子さん、あるいは小田智之さんの作品を含め、それぞれの個性が楽しめる展観になっていた。