ハートフィールドギャラリー(名古屋) 2021年10月7〜17日
加藤恵利
加藤恵利さんは1967年、愛知県生まれ。金城学院大を卒業後、Bゼミを経て制作を続けている。
もっとも、筆者が加藤さんの作品と出合ったのは1996年で、その後、途中、育児による長期間のブランクもある。
制作再開後、作品をしっかり見るのは今回が初めてとなるが、作品は一貫していた。
名古屋の戦後現代美術の一時期を担った「桜画廊」が画廊主の藤田八栄子さん(1910-1993年)の逝去によって閉じた後、その場を引き継ぐかたちで、短期間ながら「新桜画廊」が活動した時期があったが、加藤さんはそこで1996年に個展を開いた。
愛知県内の築100年ほどの民家に住んだ経験から、加藤さんは古くなった建築部材に興味をもち、廃材を移動・再構築する大規模なインスタレーションを展開していた。
当時、中日新聞の美術記者だった筆者は、30代初めで、加藤さんはまだ20代だった。
若く活力が満ちあふれていた加藤さんは、建物の柱や梁などの部材を新桜画廊のギャラリー空間に持ち込み、再構築していたが、それ以前には、よりラジカルに身体性と空間に関わるプロジェクトを試みていた。
「身体とものについて」と題された1990年代の別の展示では、さまざまなサイズの廃材を空間に移動させ、会期中、廃材の構築の「組み替え」を継続させることで、身体性と空間の変化、ものをつくる行為の意味、生きることや日常性との関係を探っていたのである。
山梨県の「白州アートフェスティバル」(1995年)にも参加。屋外でのプロジェクトにもエネルギーを注いだ。
華奢な20代だった加藤さんが、重い建築廃材を運んで再構成するという行為自体が、どこか過激な印象も与えていた。
その中には、原口典之さんとのコラボレーションのプロジェクトも含まれる。
断片からの創造 2021
時を経て、現在の加藤さんが重い建築廃材で制作することはない。ここで使われるのは、廃棄物となる薬やお菓子の空き箱、段ボールなどの廃材である。
そうした立体物を展開図のようにばらして、平面作品として支持体に展開した作品や、解体し、平面や立体に再構成したものが主である。
作品は、解体する、切断する、ちぎる、組み合わせる、積む、重ねる、糸で縫う、接着するなどの基本的な作業によっている。
1つの空き箱や段ボールなどを分解し、その断片をそのまま再構成したものも一部にあるが、ほとんどは、その中の一部を使うか、別の素材の断片と組み合わせている。
空き箱を解体し、それを糸で編む。和菓子の木箱や、額縁の木枠を解体し、組み直す。まるで手術後の縫合のようである。
まず、注目されるのは、作品としての色彩の美しさや、構成の妙というか、形の豊かさである。
加藤さんの作品の中には、意識的に幾何学形にしたものもあるが、むしろ、作品として興味深いのは、そうしたことを意識せずに構成した作品である。
同じような意味で、断片をきれいに切り取って整然とさせた作品より、無秩序なもの、崩れそうなもの、傷や裂け目、裏側の見えるもののほうが面白い。
それは、1990年代に加藤さんが建築廃材で再構成したときと変わらない。
手でちぎる行為や、大まかな切断など、制作と制作ともいえない行為との間でなされたプロセスによるほうが、作為が強く出た作品より面白いのである。
作品と作品でないもののあわいに、新たな相貌が現れ、素材の質感や本質、ものが在ることが姿を見せるからである。
加藤さんの営為は、職業的な労働によって工業製品として制作されたものを解体し、その断片の素材を手仕事に回帰させるプロセスに近いと言えるだろう。
それによって、見えなかった素材や製品の構造、意識されなかった色が生々しいものとなって、見る者に認知されるようになる。
そうして生まれたものは、紛れもなく、新たなものとして、この世界に現れている。
それは、例えば、かつて家や地域で担われた葬送儀礼が、ビジネスとして葬儀会館で行われることにって、「死」が遠ざけられたのと同様、見えなくなった「つくること」を取り戻す行為でもある。
だから、加藤さんの作品は、子供目線の図工や、女性の手芸をも想起させる。
いったん制作から離れながらも、再び「つくること」を問い直すこと、自分の身の回りでできる等身大の「つくること」を真摯に続ける姿に、いま、ここに生きる意味が重なる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)