愛知県立芸術大学サテライトギャラリー SA・KURA(名古屋) 2021年1月30日〜2月14日
象られた土、広がる庭
愛知県立芸術大学出身で、陶や土を素材に「彫刻」で表現する5人のグループ展である。
企画者は、同大学美術学部彫刻専攻准教授の竹内孝和さんで、自身も出品した。ほかの4人は、30歳前後のアーティスト。竹内さん以外は全員女性である。
1990年代以降、映像表現を含め、現代美術が多様化する中で、古典ともいえる人体彫刻や具象彫刻をどう捉えるか、特に、土で象られた彫刻の現状はどうなっているか、そんなテーマの展覧会である。
展示された作品は、自由な発想とは裏腹に、「彫刻」というべきか否かを含めて、さまざまな問題提起を内在させている。
明治時代以降、愛知県瀬戸市から欧米をはじめ海外に輸出された陶製置物「ノベルティ」との絡みでいえば、彫刻というより、そちらに近い印象を与えるものもある。
陶彫という言葉もあるが、土から陶へという焼成プロセスを考えると、陶素材の彫刻と現代陶芸の関係をどう考えるか。
戦後の日本では、走泥社に見られる戦後の前衛陶芸から、インスタレーションを含め、陶芸によるオブジェの表現が多様化し、作品が大型化した1980年代には現代美術とも接近した。
時を経て、奈良美智さんが陶芸作品を制作し、近年は、村上隆さんも、現代陶芸に強い関心をもっている。
今回、展示された作品の中にも、素材として土、テラコッタ、陶を相対的に使った現代美術があれば、陶芸と近い作品もある。
現代陶芸、あるいは、陶による彫刻、陶や土を使った現代美術、陶を素材の1つとして使ったインスタレーションなど、どれにあてはまるのかは意外に難しいのである。
必ずしも整理する必要はないのかもしれないが、現代美術と現代陶芸の境界が溶け、そのはざまで起きている現象ともいる。今後、議論が深まることに期待したい。
なお、2009年ごろまでの論点をまとめた「工芸的造形への応答」、2020年にあった「塩谷良太展 瀬戸市美術館 かたちに、かたちのないもの」なども参照してほしい。
今回の展示は、とても自由で、バラエティーに富む。
竹内孝和
竹内孝和さんは1961年、三重県生まれ。愛知県立芸大大学院美術研究科彫刻領域を修了。1998年、ドイツ・デュッセルドルフ芸術アカデミーマイスターシューラー取得。これまでの作品などは竹内さんのWEBサイトを参照。
竹内さんの作品は、古代人がどのように他者と向き合っていたかに関心を向ける中、改めて土という原点に立ち返ったイスタレーション「源の道」である。
竹内さんの作品は、2020年2月のL gallery(名古屋)での2人展に見られるように多様であるが、人間とは何かを古代から現代という歴史的な文脈で考えるという点では一貫している。
概念と価値体系、テクノロジー、欲望、制度やイデオロギー、文化など、人間が社会の「発展」の中で作り出したもの、つまり文明と関係づけながら、人間の本質を問い直す。
今回は、それを土素材を中心にしたインスタレーションで展開している。
床にごろりと転がった多数の卵型の土塊は、愛知県立芸大(愛知県長久手市)周辺で採れた土で造形した人間の頭部である。
竹内さんは、土=大地に生命の起源のイメージを見て制作した。筆者は、それと同時に、中国人監督ワン・ビンによるドキュメンタリー映画「死霊魂」のラストシーンの印象があまりに強く、「死」をも想起した。
土から生まれ、土に還る。人間の生と死が原初的、象徴的に示されているともいえるだろう。
鉄のフレームで立ち上がるのは、先史時代に描かれたような人間のイメージである。手と思える部分の2カ所には、無から創造力によって発明した衣服、斧が配置され、進化について喚起する形象になっている。
2人の人間が互いに向き合った陶の作品「君と私」も、プリミティブな印象である。
ここにあるには、人間と人間の根源的な関係である。
スマホをはじめとしたさまざまな通信メディア、インターネットによるメール、SNSなどにによって、人間と人間の関係までもデジタル化、希薄化した現代。
触れる、つながるという、人間にとって最も大事な親密さが土によって人と人が一体化したように造形化されている。
後藤あこ
後藤あこさんは1989年、愛知県生まれ。2014年、愛知県立芸大大学院美術研究科彫刻領域修了。演劇的な空間を取り入れ、現実と虚構へのまなざしを主題化する。
最近の展覧会に、2020年のファン・デ・ナゴヤ2020「下手があるので上手が知れる」(名古屋市民ギャラリー矢田)、「ら抜きの仕草」(名古屋・アートラボあいち)など。
今回の作品では、「ら抜きの仕草」で見せたように、作品に鏡を使っている。
「ら抜きの仕草」では、演劇の張りぼてのように作ったドン・キホーテの登場人物のイメージ(表)を向こう側の鏡面に向けて配置。こちら側には裏の構造体を見せ、鑑賞者が、鏡を介してしかイメージを見ることができないようにすることで、空間における表/裏、実体/虚構を考えさせた。
今回のイスタレーション「空洞のストレンジャー」は、鏡面の前で、陶製の人形がテーブルを挟んで食事をする舞台装置のような展示である。少し離れた位置に犬の陶彫がある。
ある日常的な設定の空間が、記号化された人間、写実的な犬によってシンプルに構成され、実像と虚像がまじりあっている。実体/虚構が連続した空間における問題提起は一貫している。
櫻井結祈子
櫻井結祈子さんは1993年、長野県生まれ。2018年、愛知県立芸大大学院美術研究科彫刻領域修了。
長野県の山の中で育った実体験から、森の中の生命の共生するイメージを独自の世界観で表している。
「眠れる庭」は、箱庭のような中に、さまざまな生き物、植物、キノコが寄り添うように存在している。
一見、メルフェンの世界と思いきや、まがまがしいほどの生命力とともに、植物、動物と人間が融合するなど、異形としての姿が不気味である。
人間と動物、植物が区別されない存在として一体化しているところに、この作家の人間と自然との関係への視点を見ることができる。
人間を含む謎めいた自然への憧れと怖れ、喜びと不安、恵みと脅威など、内なる泉から湧き出る両義的な異界、神秘性が魅力になっている。作家のWEBサイトには、シュールな世界があふれている。
長田沙央梨
長田沙央梨さんは1988年、愛知県生まれ。2014年、愛知県立芸大美術学部美術科彫刻専攻卒業、2016年、東京芸大大学院美術研究科彫刻専攻修士課程修了。
デフォルメされた動植物をインスタレーションとして展開している。
今回の「ゆめみるいちにち」は、陶と木、真鍮を素材に、木の枝に動物や鳥がいる様子をモチーフにした。
周囲の壁や床に、別の作品として、鳥やヤマアラシを描いた油絵が配置されていて、全体で1つの空間をつくっているということもできる。
絵画や立体(陶やテラコッタ、木)など、さまざまな表現方法を併存させつつ、それらの素材感を強く押し出すよりは、全体として柔らかで温かい雰囲気を醸成している。
動物ということでは、素材は違えど、三沢厚彦 さんの木彫を思い出した。陶をこのように使う発想は、ひと昔前では考えられなかったのではないか。
作家のWEBサイトには、さまざまな動物等が掲載されいて、とても愛らしくユニークである。今回は出品されていないが、彫金によるアクセサリーも制作している。
村上仁美
村上仁美さんは1990年、大阪府生まれ。2016年、愛知県立瀬戸窯業高校セラミック陶芸専攻科卒業。2017年、愛知県立芸大大学院美術研究科彫刻領域修了。
身体とその中にたたえられる精神と生命、官能、愛と死という主題が作品から伝わる。
人魚の大作「泡沫の一碗」では、 体の一部の肉がえぐられ、骨がむきだしになって海底と融合したように見える。
他の作品を含め、官能と魔性、耽美、グロテスクと形容できる表現が、細部の造形、装飾、質感まで行き届いている。
その身体は植物や他の生物、大地と一体化し、生まれゆくと同時に朽ちている時間の流れを感じさせる。
外部と内部の空洞がそのままつながっているような身体は、生命の源から死への時間と、輪廻、つまりは瞬間と永遠を併せ持つようである。
女性という身体がはらむ生への羨望と不安、そして愛、エクスタシー、幻惑と諦念、死がないまでになって訴えてくる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)