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久野真展(刈谷市美術館) 木本文平さん、庄司達さんの対談から

 鉄、鉛、ステンレスなど金属による「絵画」を追究した久野真さん(1921〜98年)の展覧会「久野真展—Metal Works—」が2019年7月23日、愛知・刈谷市美術館で始まった。9月1日まで。入場無料。7月19〜27日には名古屋画廊でも久野真展が開かれた。27日には、久野さんをよく知る愛知・碧南市藤井達吉現代美術館長の木本文平さんと、造形作家の庄司達さんの対談「久野真の作品世界」もあり、二人が知られざる久野さんのエピソードを語った。

久野真展の対談、木本文平さんと庄司達さん

 久野さんは1943年、東京高等師範学校芸能科(現筑波大)を卒業。海軍予備学生として入隊し、特別攻撃隊飛行操縦教官となり、茨城県の百里原飛行場で終戦を迎えた。1951年から、名古屋市立工芸高校の教諭となり(67年まで)、一時、光風会展に出品した後、52年に新制作協会展に参加(60年退会)。木本さんは、これを実質的な作家活動のスタートとした。50年代半ばに注目されたのは、石膏を使った抽象作品だった。

 57年から、東京・村松画廊で個展を開き、その後は、主に名古屋の桜画廊(62年から)と東京画廊(63年から)で作品を発表。対談では、最初に木本さんと庄司さんがそれぞれ久野さんとの出会いについて語った。
 木本さんは、1983年の桜画廊での久野さんの自選展で「感動して(当時勤務していた)旧愛知県美術館に収蔵したい作品があったが、購入予算がなく、その後、88年に開館する名古屋市美術館の準備室も同じ作品を欲しいということで、名古屋市美術館の作品になった」と回想した。この作品は「鋼鉄による作品」(59年)で、今回も、重要な作品として展示されている。石膏の地に二つの動感のある形が拮抗し、強さとともに日本的な情緒もにじませた作品だった。
 木本さんによると、1960年に新制作を脱会したことについては、「東京都美術館の展示スペースが他団体との関係で狭く、絵画なのに彫刻の部屋に飾られるなど、団体展の限界を感じた」と語っていた。67年、桜画廊が伏見ビルに移転し、久野真さんと東京画廊の仲だちによって現代美術の企画画廊として再スタートを切った時のオープニングは久野真展だった。この時、鋼鉄の作品は別室に飾っただけで、企画展示室にはウレタンの作品を展示したが、評判が悪く、みんな唖然としていたという。69年には、庄司さんの企画で、第1回名古屋野外彫刻展を名古屋・白川公園で開催。庄司さんによると、この前年、美術評論家の中村英樹さんらも参加して現代美術のシンポジウムが桜画廊主催で開かれたが、久野真さんと水谷勇夫さんの意見がぶつかるなど、実りのない議論が平行線のまま続き、「議論より行動した方がいい」ということになり、企画したのだという。

 木本さんは、その後、1975年頃から、久野さんの作品で立体が突出してレリーフ状になってきたこと、80年代半ばに再度、鉛の作品が取り組まれたことなどに触れ、以降、久野さんが情感的だとして排除してきた曲線を復活させ、タイトルにも「長い手紙」「雨のち晴」などと詩情のある言葉が登場するようになった展開にも言及した。
 続いて語られたのは、1998年に木本さんが企画し、愛知県美術館で開かれた「久野真・庄司達展—鉄の絵画と布の彫刻」展。その前段階で、木本さんが久野さんの作品について、改めて「絵画でしょうか、彫刻でしょうか、レリーフでしょうか」と尋ねると、久野さんは「決まっているじゃないか、絵画だよ」と答えたという。
 当時、「あまり久野さんの体調が良くない。展覧会をするなら早い方がいい」との情報が入り、企画展の準備が急テンポで進んだ。愛知県美術館の企画展スペースが広大であるため、当時の館長から「もう一人を組ませて、2人展にするように」と言われた木本さんは内心、すぐに相手役は庄司達さんだと思ったといい、久野さんも「庄司君でいいだろ」と言ったという。
 一方、庄司さんは「(自分は)久野真を批判しながら成長してきたので、(2人展は)考えもしなかった。大きな久野真から必死に自立して違うポジションに立とうとしていたので、2人での企画展は考えられないことだったが、断れなかった」と振り返った。庄司さん流の言い回しだが、庄司さんが快諾し、1998年の愛知県美術館での展覧会が実現。展覧会の会期は6月7日までだったが、久野さんはその2カ月半後の8月22日に逝去した。企画者の木本さんには、久野さんに負担をかけ、申し訳ない思いがあったが、遺族からは「あなたのおかげで寿命が延びた。感謝している」と告げられたと言う。

久野真展

 庄司さんはこの日の対談について、「久野真さんについてこのように語られるのは1998年の展覧会以来で、意義が大きい」と述べた上で、「久野真の作品は1970年代以降の日本の現代美術で忘れられつつあった。見かけは現代美術だったが、作品の中に何千年もの絵画の知恵が込められていて、(そうした傾向が)若い世代の作家にはうっとうしかったのだろう」と分析した。庄司さんは「間近で久野さんの作品に触れる中で、80年代後半、久野さんの作品は、平面の外の開かれた現象と、絵画空間に閉じられているものが交流し、現代に繋がっていった」として、再び時代性を帯びた点を評価した。
 木本さんは、久野さんの晩年、無神経に『死』について聞いてしまったことがあるという。その時、久野さんは「以前は、(死は)自分にとって霧のような中で迎えるものだったが、最近では、シャッターのようにバシャッというのが死なんだ」と語ったという。これに呼応し、庄司さんが「(自分も)シャッターみたいなもんです」と言うと、木本さんは「シャッター街にならないようにしないとね」と締めくくり、笑いを誘った。

久野真展
久野真展
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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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