名古屋芸術大学Art&Design Center(愛知県北名古屋市)
2019年10月26日〜11月12日
泉太郎さんの大掛かりなインスタレーションが名古屋芸大で始まった。
1976年、奈良県生まれ。国内外でキャリアを積み、最近は、パレ・ド・トーキョー(パリ、2017年)や、金沢21世紀美術館(2017年)で個展をしている。筆者にとっては、ほとんどこの作家の展示を見るのは初めてである。内容については語りにくく(あえて、そうしているのだろう)、謎かけのようだ。
テーマは「芸術大学」である。筆者は、社会科学系の学部で学んだ人間なので、芸大、美大に籍を置いたことがない。その点で芸大、美大にいた方の方がリアリティをもって鑑賞できるのかもしれない。ただ、新聞記者時代から今も含め、美大、芸大を卒業した、あるいはその教員である作家から話は聞くので、泉さんがチラシで「特殊な教育機関」「ある種の閉鎖空間」と表現している美大、芸大の特徴は、なんとなく分からないではない。
泉さんは、そうした美大、芸大での制作活動と、外部との「距離」で起こることをテーマにしている。筆者が思うに、それは、筆者のような、まさに外部の人間からすると、美大、芸大、もっと言えばアート業界の分からなさの断片を拾い集めたようなものである。「距離」は、時代の変化、社会の変化をも映す。泉さんはその不条理さについて、挑発的なユーモアとアイロニーを込めて問いを投げかけている。美大、芸大の特殊性は、アート業界との齟齬を持ちつつも、アート業界そのもの、ひいてはアートそのものの特殊性をも射程に入れざるをえないので、泉さん自身がチラシに書いている通り、アートと社会システムとの間に起こる摩擦、軋轢についても再考させる。
泉さんの初見の印象は、インスタレーションの展示が巧みであること。映像やインスタレーション、各々の展示が相互に関連づけられながら、全体がつながって作品になっていること。最大の展示室の作品「使用済み扉/立て掛け画板」は、広い空間内に仮設のパーテーションのような壁がベニヤ板と角材でいくつも設けられ、正面から見ると、白く塗られた壁が重なり合いながら、並んでいる構造である。裏側を巡ると、それぞれの板材にモニターが設置され、この大学の学生がパフォーマンスをする映像が流れている。
パフォーマンスは、全体に気怠く、動きも緩慢で、座っていたり、ただ、立っていたり寝ていたりするようなもので、それぞれ、そのモニター画面がある場所と同じ場所でパーフォーマンスをしたことが分かる。モニター画面は、電気スタンドの明かりで照らされている。所々の床には、ペットボトルやカロリーメイト、ゴムボールなどが置いてある。展示室の壁に白い絵が掛けられている。配られたマップに、会場のどこかに作品名「無し食い虫b」があり、「自分が失敗だと思う絵を白く塗ってお持ちください」と書いてあるので、これのことかと思われる。すなわち、この白い絵は、学生が失敗した作品を白く塗りつぶしたものであろう。改めて、この展示室の正面には、横長のスクリーンが設けられ、この部屋自体の正面からの映像が投影されていることに気が付く。
回遊するように、このパフォーマンス映像を眺め、隣接する狭い部屋に入ると、映像インスタレーション作品「網目模様a」「網目模様b/無し食い虫a」がある。学生パフォーマーたちの集団が前方やや上方の1点を指差す映像、その手前にそれを撮影する人の後ろ姿の映像モニター、回りこむと、さらにカメラを覗く大学生など2つの映像モニターがある。この小部屋を廊下側から見ると、学生パフォーマーのアルバイト募集の求人が多数貼ってあり、床に接する見えにくい場所にある別のモニターには、学生たちが展示室で床を這っているような映像も流れている。
また、ART&Design Centerのオフィス裏部分にも、学生たちのパフォーマンス映像のモニター、撮影セットや機材、日用品、あるいは、白く塗りつぶした絵画「無し食い虫b」などを展示。併せて、スマートフォンが充電できる作品「籠の萌やし」がある。筆者は、学生のアルバイトらしいスタッフに「これも作品ですか?」と尋ねたが、要領をえない返事だった。観客は自分のスマホを出せば、スタッフが、展示ケースの中にある、モヤシのようひヒョロヒョロと延びた充電コードの先に付けてくれる。観客が自分のスマホを充電すると、それが一時的に展示作品になるというものだ。
また、ART&Design Centerの入り口付近の展示室には、「厩戸の子鹿たち」という作品がある。これは、展示期間中、自転車置き場として、学生などが自転車を止めておける場所。つまり、展示室を来場者用に開放している。ただ、マップには「ご利用の際は備え付けの鍵をご使用ください」とある。
これが今回構成された展示の全体である。大学生のパフォーマーたちを巻き込んだ、現場感のある作品であると同時に、パフォーマンス、映像、インスタレーション、絵画、既製品などを大掛かりに、しっかりと構成している。それぞれの作品に明確な意味はあるのだろうが、自己韜晦的というのか、分かりやすいとは言えない。各作品のタイトルにあるように言葉遊びの要素やメタファー、アナロジー、パロディなどの修辞法とともにユーモア、アイロニーもあって、社会的、政治的な問題意識があってもそれをストレートに出さず、見る者を混乱させ、惑わせる。
学生たちのパフォーマンスは、何か意味があるのか明確にあるようには思えず、実際、アルバイトパフォーマー募集のチラシにも「壁と床の接点に指の先を這わせてこすり、爪を圧迫するお仕事です」などという仕事内容が書かれている。また、自転車を建物内のギャラリーに置かせてくれる展示も、そうした配慮の半面で、鍵は備え付けのものを使うように指示される、スマホも、充電してくれる代わりに展示物にされてしまうなど、表面と裏側、実像と虚像、建前と本音、自由と管理などの対比する概念を内包し、日常や制度に潜む不条理、枠組みを暴いている部分がある。
加えて、学生が通学する自転車や、ほとんど誰もが手にするスマホ、ペットボトル飲料や、うまく描けていない絵画(と本人が思っている絵画)など、普段の学生生活が取り込まれ、ずらされる。明治以降の欧米からの美術制度の輸入、官展、あるいは日展以外の公募展、前衛美術、「現代美術」、現在のグローバルなアートなど、時代時代の美術教育機関と外部との関係の歪さは、ありようを変化させながら、脈々と続いていた。そもそもアーティスト、あるいはアート業界、あるいはアートそのものがそれ以外の社会、日本で言えば、世間とは異質である。では、社会とは正しいものなのか。アートは、そもそも世間的な社会との異和があるから、アートなのではないか。何が特殊で、何が閉鎖空間なのかも分からなくなってくる。