ケンジタキギャラリー(名古屋) 2024年11月9日〜12月21日
今村哲
今村哲さんは1961年、米国ボストン生まれ。愛知県立芸術大学大学院修了。絵画あるいは絵画を中心としたインスタレーション作品をテキストとともに展示する作家である。
作品全体が神話や文学、史実、科学、映画、テレビのウルトラマンの怪獣などからの引用による新たな物語世界を反映し、独特の世界観をつくっている。
そうした連鎖的な物語の一場面を描いたフィクショナルなイメージは批評精神とユーモアをたたえ、寓話的、文明論的、人類史的、哲学的である。
2002年に東京都現代美術館のMOTアニュアル2002「Fiction?-絵画がひらく世界」、2007年に東京・森美術館の「笑い展:現代アートにみる『おかしみ』の事情」に出品した。
2021年4-6月に、愛知・碧南市藤井達吉現代美術館の「いのちの移ろい」展に参加。ケンジタキギャラリーでは直近では2022-2023年に個展を開いている。
染谷亜里可さんとのユニット「D.D.」としても、2021年の「王様だけがパンツを履く」、2020年の「Tilted Heads」などがある。
Space Bag 2024年
今村さんの虚実が入り組んだナラティブな作品には、単線的な進化や歴史、欧米中心主義、従前の人類史観から離れ、複数性、多層的、複雑系としての循環的、相対的な人類史を念頭にした豊かな世界がある。
そうした世界観を示す象徴的な作品として、1階正面に展示されたのが、「ラクダの胃袋」と題された大作である。
夕焼けに染まった空に、ラクダの胃袋が浮いているイメージである。画面の下半分に山のように描かれたのは、実はラクダのこぶ。透明なラクダの胃袋は「宇宙袋」として、宇宙空間を内部に満たしている。
今村さんのテキストによると、世界はまだなく、ラクダもいなかった。だけど、「ラクダの胃袋」は存在し、宇宙と関係を結んでいる。こうした時空を超えるナラティブな世界観が今村さんの作品を貫いている。
例えば、前回の個展では、現生人類と鳥類が混じり合った「ヒト」や、猿の顔の「ヒト」、あるいはエリマケトカゲのような大きな襟がついた「ヒト」など、進化と退化を相対化した人類が多く描かれていた。
こうした退化と進化が重なり合うイメージは、ナマケモノと人類が枝にぶら下がって向き合う「ナマケルド」や、豚の顔の「ヒト」の赤ちゃんをモチーフにした旧作「ひたすら可愛く」が出品されているなど、今回も随所に見られる。
今村さんは、アナーキズムの人類学者、デヴィッド・グレーバーらの大著「万物の黎明」から多くの示唆を受けている。
人類学や文化人類学には、現代資本主義、行き詰まった民主主義の「当たり前」が、一般に未開とされる社会の世界観によって転倒させられる視点が多くある。 そして今村さんもまた、そうしたリベラルな自由人である。
金沢21世紀美術館で2024年6-10月に開催された「Lines(ラインズ)—意識を流れに合わせる」も、英国の社会人類学者のティム・インゴルドの著作から着想を得ている。人類学や民俗学とアートとの「協働」は近年、重みを増しているが、今村さんは早くから、自然体でその世界に着目していたといえる。
近年注目されるマルチスピーシーズ(Multispecies)人類学は、人間中心の考え方を超えて、人間を含むあらゆる動物、植物、菌類、微生物、精霊、物など多種多様な存在を同等に扱う。
それらが絡まり合って変化とともに世界をつくり上げているとする多元性は、まさに今村さんの作品世界と重なるものである。
「サヨナラ(浮き輪)」には、水に浮かぶワッフルとピザが描かれている。水中にヒトらしき影がおぼろげに見えるのは、チンパンジーとオラウータンである。両者は、「まれびと」。いわば、民俗学者の折口信夫が提唱した他界からの人間を超えた存在、来訪神である。
ピザと言えば、前回個展でも、「ジャクソン・ピザ」という作品で、幼児が腰部にバレエのチュチュのスカートのように水平に広がったピザを描いていたのが思い出される。
「アテスカのサボテン」は、スペイン人のコルテスが1521年に、現在のメキシコにあたるアステカ王国を征服した物語に依拠している。滅ぼされたインディオのしゃれこうべから、サボテンが生えてきたという、「抵抗」の場面である。
ユーモアが込められている一方で、先住民へのリスペクトと哀愁、欧米中心の世界観への批評が見て取れる。
白亜地に鉛筆で人間や動物を描いた「ファントム」。背景の風景も事物も何もない。空間にいるのは亡霊たち。自分たちが生きているときに、拠り所となった惑星(地球)さえなくなった空間で、ただ亡霊だけが記憶も互いを認知することもなく、漂っている。
栗の中で生まれた幼虫が、周囲の栗を食べ尽くしたときに、外の世界を初めて知るのと同様、チーズの中で生まれた「ヒト」が外の世界に触れたとき、どうなるのか。
それは、これまで自分が「世界」だと思っていたものが完全に変わるということ。今村さんが言及している、ドイツの生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(1864-1944年)の「環世界」への問題意識にも関わってくる。
「環世界」では、生物はそれぞれ特有の知覚世界を持っているというが、今村さんは、生物それぞれの閉じた世界より、穴(通路)があって知覚世界がつながっているのではないかという、開かれた関係で世界を見ている。
「楽園にて」は、「異形の楽園」などと同様、「楽園」シリーズの1点。広々とした世界でウルトラマンの怪獣たちが戯れている。闘っているのか、遊んでいるのか。
ここにあるのも、価値観の相対化であるように思う。テレビの中では、人間の側から見ているので、ウルトラマンが正義で、怪獣は悪になる。
でも、本当にそんな単純なのだろうか。それぞれの星からやってきた異星人、怪獣には、それぞれの世界モデルがある。つまり個々の事情があるのだ。
先住民族や動物、生物などに対する人間中心主義の相対化と同じように、怪獣たちがそれぞれの世界モデルに固執せずに「共感」できる楽園がここにある。
これらのシリーズにも、デヴィッド・グレーバーの「万物の黎明」や、マルチスピーシーズにも通じるような、時間、空間を超える、豊かな交感の世界があるように思う。
姿見を描いた作品「天邪鬼の鏡」では、床に置かれた粘土のオブジェが鏡に映っているが、左右が逆で、しかも鏡では巨大な像になって遠近感もおかしくなっている。
「グラ」は北米インディアンのポトラッチをモチーフにしている。海を漂う浮島の、山を挟んだこちら側と向こう側とのポトラッチによって、島が傾いて危険にさらされる、というお話である。
前回の個展でも展示された南方熊楠をモチーフにしたドローイングは、今回も異彩を放っている。4点セットの「熊楠の最終の泡」は、紙に水彩で熊楠が研究した多種多様なキノコなどと小人が描かれている。
今村さんは、単線的な進歩史観でなく、先住民や、先史時代、あるいは動物や植物などを含め、相対化された世界観、自然界の知恵、引用と空想によって、豊かな物語世界をユーモアたっぷりのイメージとして描いている。
現生人類の特権性とは異なる、空間と時間の反転・融合、反権力性と対等平等性、アナーキズム。そこには、合理化と効率化、資本の増大と市場経済、強権化と格差、支配・被支配を相対化する、しなやかな感性が見て取れる。
人工知能やバイオテクノロジー、生命操作によって、人類が生物学的な限界を超え、ポストヒューマンへと突き進もうとしている現在において、人間を問い直している作品である。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)