清須市はるひ美術館(愛知県清須市) 2021年1月9~31日
一人ひとりの世界の中で。
干場月花さんは1993年、兵庫県生まれ。2016年、日本大学芸術学部美術学科絵画コースを卒業した。
今展は、清須市はるひ絵画トリエンナーレアーティストシリーズの一環。干場さんは、 2015年の第8回はるひ絵画トリエンナーレで 入選し、 2018年の第9回展では、きよす賞・美術館賞を受賞した。
干場さんの絵画は、ある場面を描いている。
一人ないし数人の人物が、エスカレーター、路上、駐車場、横断歩道など、日常的あるいは、そうでないにしても、日常の延長にある何の変哲もない場所にいるシーンである。
多くの人は、鑑賞者に対して背を向けているか、視線を落としている。
鑑賞者の存在が絵画の中の人たちに全く意識されていないという点では、「反演劇的」な絵画である。
また、描かれている人たちは、何かに没入しているというわけでもない。ただただ、「何も起きていない」時間なのである。つまり、ふとした日常の隙間のような私的な時間である。
後ろ姿であることが大事なのではない。それは、なんらかの目的があるとしても、ささやかな日常の過渡的な時間なのである。
彼らは、何も考えていないかもしれないし、過去に起きたことを振り返っているかもしれない。あるいは、これからあることを心配しているかもしれない、何かを呟いているかもしれない、そんな時間である。
干場さんは、それをロングショットによるスナップ写真のように描いている。
だから、画中の人物たちは、カメラの存在に気づいていない。つまり、見られている意識がない。
干場さんはおそらく、遠くから撮った写真を基に描いている。ラフな描き方だが、パースペクティブが写真的である。
被写体との距離が比較的近いと思えるものもあるが、ほとんどは一定の距離感がある。
だからだろう、画面には窃視的な雰囲気が漂う。画中の人物は、素の状態である。
人物は、顔の細部や表情が読み取れない。窃視された人物なので、誰であるかは問題ではないのである。
見る人は、誰かを重ねることもできるだろうが、むしろ、これらの人物は普遍的な人間である。場合によっては、自分自身を重ねることもできるだろう。
決して、暗い画面ではないのに、画中の人物には、そこはかとない孤独感が漂っている。
その孤独感とは何なのか。
登場人物たちが、何をしているのか目的が明確でなく、背を向けていたり、うつむいていたりして、表情が見通せないせいもある。写真を基に、粗くおぼろげに描いている効果も見逃せない。
もっと言えば、背景の細部が捨象され、大づかみな色面構成の空間に変換された虚空に、人間が投げ出されているためではないか。
その孤独とは、周囲にあるはずの人や物が取り除かれているから、という意味ではない。人間は誰しも、この世界という虚空に1人で存在しているという真理を突きつけられているという意味である。
世界から切り離されている不安、未来や過去への怖れ、孤独、死への恐怖を感じるのが人間の常であろう。
干場さんの作品には、そんな孤独、不安、怖れを感じる。
描かれた個々の人間がそうした孤独、不安、怖れを認めているかどうか、自分の内面に向き合っているかどうかは別として、それが人間である。
言い換えると、 干場さんの絵に登場している人間は 、生の充実感、幸福感、つまりは、「今」が感じられないありようなのである。
少なくとも、それぞれ「今」を生きているかもしれないが、それが読み取れないように描いてある。
そして、世界から分離したようにそこにいる。
だからだろうか、分離感、共生感覚の欠如、孤独と不安がよりいっそう、絵画空間へと、にじむのである。
これは、人間の本質ともいえる。
「過渡的」であるというのは、過去や未来に引っ張られて、「今」が見えないからである。表情が見えず、心がどこかに行っているからである。
人生とは、夢のような無常なものである。
だが、人間には、人生の一瞬一瞬という「今」を充実させて生きる知恵も備わっている。
人間は、自分がいる場、今このとき、動いていること、感じていること、生きていることを楽しむことができる。
干場さんの絵に、夢のような人生、人間の孤独と不安、怖れとともに、存在のいとおしさを感じた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)