ガレリア フィナルテ(名古屋) 2021年10月19〜30日
櫃田珠実
櫃田珠実さんは1958年、香川県生まれ。愛知県立芸術大学美術学部美術科油画専攻を卒業。同大学院美術研究科油画専攻などを修了後、1997年、英国王立芸術大学大学院修了。
ガレリア フィナルテでは、1993年に個展を開いた。筆者は見ていないが、絵画を展示したという。
英国から帰国後は、1998年、ギャラリーアパ(名古屋)での個展で新作を発表した。そのときは、新聞記者として取材しているが、現在と同様、写真を使った作品になっていた。
アパでは、英国で暮らす住宅の寝室をモチーフにした写真などを展示。日常と非日常、現実と虚構のあわいにアイデンティティーの揺らぎのようなものが表象されていたように思う。
その後は、名古屋や東京などで個展を開催。「新花論」(2004年、東京都写真美術館)、「放課後のはらっぱ 櫃田伸也とその教え子たち」(2009年、愛知県美術館、名古屋市美術館)などのグループ展にも参加している。
櫃田さんが英国に滞在した1990年代中頃は、Microsoftが販売を始めたOS「Windows95」を搭載したパソコンが登場。コンピューターが身近なツールとなり、同時にインターネットが広がり始めた時代であった。
併せて、デジタルカメラが登場。2000年代に入ると本格的に普及し、フィルムカメラと入れ替わるように普及の速度を早めていった。
こうした時代に、櫃田さんは、英国ロンドンでシルクスクリーンを始めたのをきっかけに、デジタルプリントの制作に取り組んだ。当初はフィルムカメラを使い、高精度のインクジェットプリントで大判出力する表現を模索。その後、2000年代に入って、デジタルカメラに移行した。
そうした時代の転換期に櫃田さんはコンピューター上で写真を合成し、写真を記録メディアでなく、思索し自分を投影しつつこの世界を捉えかえすイメージのメディアとして絵画的に使うようになった。
櫃田さんにとっての写真作品は、それ以前に制作していた絵画とつながっている。つまり、写真を用いたイメージの制作は、絵画として風景をつくっている感覚に近いのではないかと思われる。
筆者は、影響関係があるかどうかはともかく、画家でパートナーの櫃田伸也さんの絵画と響き合うものがあると考えている。
筆者が1990年代に新聞に書いた櫃田伸也さんの個展レビューを読み返して、なるほどと思ったのは、若い頃、映像(映画)への関心が強くあった櫃田伸也さんが、(さまざまな映像の断片をつなぎあわせるように)絵を描くことで新たな風景を組み立ててきたことである。
つまり、身近にある風景のディテールの集まりによって絵画を成り立たせるのだが、櫃田(珠実)さんも身近な世界の断片を集め、写真を組み合わせることによってイメージをつくっている。
櫃田さんが使う写真は、日常的に撮りためた身近なイメージで、決して身構えて撮影したものではないが、背景には絵画的なものがあるのである。
それらをコンピューター上で合成していく手並みが軽やかで、コマーシャルフォトに通じる洗練さもあるので、あえて、そうした背景を見せないようにしているとも言えるのだが。
Real Real UNREAL
櫃田さんの作品を見ると、不思議な感覚に囚われる。日常のなにげない光景に思えるが、違和感がある。その違和感に気づくこともあるし、気づかないこともある。
今回も、大半の写真はイメージの断片が合成されているが、その程度は作品によって異なる。中には、全く合成されていない作品もある。
つまり、現実と虚構の境界が分からない。だから、その違和感が非現実から来るものかもしれないし、現実に根ざしたものかもしれない。
以前の作品と比べ、日常的なイメージになっている印象はあるが、そこに違和感、言い換えると、神秘性、幻想性のようなものが感じられるのは一貫している。
明らかに写真を合成していると分かるものとしては、二重になった雲や、大学の掲示板の中の風景のイメージ、舞い上がる花びらがある。
そのほかに、河原の草むらにたたずむ造形物、夜景の中にある花など違和感を感じさせる風景の断片もある。それらの多くは、リアルなイメージに溶け込んでいる気になる細部である。
それは日常をつなぎ合わせたフィクションであるが、まったくの嘘というわけでもない。
現実であると同時に非現実で、日常であると同時に非日常である。櫃田さんのイメージは、そんな浮遊感によって、見る者が自分もそんな世界にいるのだという感覚へと導く。
つまり、リアルな世界にいる非リアル、非リアルな世界にいるリアルとでもいえばいいだろうか。
それは、映像があふれる世界に埋没してしまっている私たち自身の姿である。櫃田さんの提示するイメージは、リアルと非リアルが相互に陥没しあっているようである。リアルの裂け目に非リアルがのぞき、その非リアルの裂け目にリアルが現れる。
櫃田さんの作品イメージは、シンプルに見えて、そうした思索の奥行き、世界観をもっている。
筆者は、現代の世界に櫃田さん自身が感じ取るイメージの虚構性/実在性がもつ奥行きをうまく説明できないでいた。
だが、今回、櫃田さんは、これらのイメージが過去の絵画的なるものに重ねられていることを明らかにしている。つまり、今回展示された作品の多くは、櫃田さん自身の中にある絵画的なイメージを参照している。
ピネサロ(1395年頃〜1455年頃)の黒い背景に浮かぶ花や動物、パティニール(1480年頃〜1524年)の世界の果てまで見渡すような風景画、法華寺(奈良市)の国宝「阿弥陀三尊及び童子像」に舞う花びら、往生者を迎えるため、阿弥陀如来と二十五菩薩が雲に乗って降下する来迎図、とりわけ「早来迎」の雲の描写や、武蔵野図の秋草図の構図などが、参照されている。
櫃田さんは、写真イメージがアナログからデジタルへと移行する時期に、いまだ写真がなかった時代の絵画の中に、日常を描写しながら日常を超えた世界観、現実の中にある非現実という神話作用を喚起するものを見出し、そこから写真のイメージを通じて、現代の空間を逆照射している。
つまり、はるか古く、写真などなかった時代、いにしえの先達が創造した絵画にある世界観と現代を往還しながら、変わらぬ人間存在の神秘、人間の力を超えた世界と、変わりゆく現在を見ている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)