Gallery NAO MASAKI(名古屋) 2023年12月9〜24日
中西洋人
中西洋人さんは1984年、名古屋市生まれ。岐阜県高山市で18歳から木工を学び、家具職人として働いた後、独立した。
素材となる木を求めて、2011年に滋賀県の最北端、福井県に近い長浜市余呉町に移り、自宅兼工房で制作している。
枯れた、見すぼらしい山の原木や切り株、倒木、ごみのように朽ちた木、雪の重みで極度に歪んだ枝など、およそ部材や家具用材としては成り立たない木から作品を制作するようになったのは、もともと古い物が好きだったせいもある。
2010年から個展を中心に作品を発表。Gallery NAO MASAKIでは、2014年以来、個展を開いている。2021年の個展「繋ぐ」のレビューも参照。
芯 2023年
中西さんは素朴で謙虚、自然体の人である。コンセプト先行の計らいは見られないし、工芸的な感覚はある一方で、展示作品は、機能的な家具を作ろうというのでも、進んで洗練されたデザインを追求するのでもない。
一部に花器として使えそうな作品があるものの、多くはオブジェである。家具職人出身で、古物が好きという出自から考えてもそうだが、実際に話した本人も、彫刻やファイン・アートを作っている意識はあまりない。
雪の重みで曲がった枝が、屈曲した鉄筋そっくりに加工され、朽ちた木がドラム缶やトタン板、溝蓋に使われるグレーチングなどの金属に似せてあると、その技術に驚くとともに、作品の魅力、そしてユーモアに惹きつけられる。
だが、それを流行りの超絶技巧だけで語るのではつまらない。人はなぜ、朽ちた物、荒廃した状態にノスタルジーを感じるのかともふと思う。
年月を経て、自然の風雨に晒された老樹が森の中で時の過ぎゆくままに放置され、踏み入る者の関心をも引かず、時間の無情さの中で朽ちていく。
無常と万物流転の定めで滅び、力なく生気を失って、存在することを忘れられてもなお、消滅するまでの時間を静かに待つ強さと潔さにおいて価値を放っている。そんな木が中西さんを引きつけるのだ。
存在しているものが終わりに向かうという絶対の真理。無名の人間の人生にも、生かされた瞬間の連なりと、多くのものを背負ってきた歴史と誇りがあるように、中西さんの素材となる木も命の摂理と壮大な自然のドラマの中で存在している。
生から死へとゆっくりと進み、老いさらばえ、屍となって、片隅にひっそり在るもの、崩れ、剥落し、形とはいえない形となったものを信じ、その声なき声に耳を澄ませる。
それは、その木の存在そのものを見ることではないか。今回の個展のタイトルにある「芯」を意識して、中西さんは制作するらしい。
芯を抜くこともあれば、芯を残すこともある。芯を意識することが、表面を考えることにもなり、その木の本質を深く「観る」ことになる。木への尊厳、生命への慈しみがあるからこそ、余呉町まで制作拠点を移したのだろう。
超絶的な技巧に目は奪われるが、筆者は、もし、これがきれいな製材から作られたものであるなら、これほど興味は持たないだろう。
それは、買ってきた木材を技術でコントロールして、物に擬態させるだけだからである。中西さんは、そうではなく、森に落ちた、あるいは、朽ちた木という、無言で慎ましやかな、存在らしからぬ存在から、全く異なるものを作っている。
それは、遠くの声を聴き、別の遠くへ行くことだと言ってもいい。
中西さんは、森で採集した木を手元に置いておき、それを眺めながら、自分のところへ作りたい「形」がやってくるのを何年も待つのである。
中西さんの作品に、外見と実態の乖離で鑑賞者を驚かせる側面があるにしても、それは、単なる超絶技巧による美的レベルの遊戯ではない。
世界をありのままに受け入れながら、単線的な時間認識から、回帰するような豊かな時間へと想いを広げ、木という命の存在に対する尊厳、寛容さと愛情を持って、全く異なる装いをまとわせる。
それゆえ、見る者に安らぎとユーモアを与えてくれるのである。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)