GALERIE hu:(名古屋) 2023年10月21日〜11月12日
新實広記
新實広記さんは1976 年、愛知県生まれ。2001年、愛知教育大学大学院教育学研究科芸術教育専攻修士課程修了。
2013年に愛知県岡崎市のmasayoshi suzuki galleryで個展。また、愛知・瀬戸市新世紀工芸館や富山市ガラス美術館などのグループ展に参加している。
その他、各地でグループ展に出品。2023年には、金沢市の国立工芸館で「ポケモン×工芸 美とわざの大発見」にも参加している。
作家は40代後半で、すでにキャリアの長い中堅という年齢だが、筆者はこれまで見る機会がなかった。作品は、ガラスの立体で、内部がしっかり詰まっている。
床に置かれた作品は、100キロを超える重さだという。水をたたえたグラスをモチーフにした小さな作品を持たせてもらうと、これでも、ずしりと重い。
耐火石膏の鋳型にガラスを入れて作る鋳造ということなのだろうが、ギャラリーにあった資料によると、ガラスのペレットを鋳型内に詰めつつ、それだけだと十分なガラスが入らないので、注ぎ口から溶けたガラスを注いでいるようである。
100キロ超のガラスを扱うと、鋳型にものすごい圧力がかかるため、セメントで補強もするらしい。大変な作業である。鋳肌の研磨作業にも膨大な時間を要する。
作品は、工芸ジャンルのオブジェともいえるし、ロニ・ホーンのガラス作品のように彫刻と捉えることもできる。
あるいは、インスタレーションとしての見せ方もあるだろう。興味深い作品である。形態やサイズ、コンセプトを深めていくと、面白そうである。
Vessel 2023年
ファイン・アートでは、作品の一部にガラスを使う作家がいる一方、ガラスを主体にするのは難しい側面もあると筆者は以前、思っていた。
単なるイメージに過ぎないかもしれないが、単体だとどうしても素材感が強く出て、工芸的に見えやすいし、インスタレーションのような展示手法になりがちだからである。
それがいけないわけでは、もちろんない。ただ、どうしてもフラジャイルで、繊細であるというガラスの属性に縛られ、作品の幅が狭くなる気もしていた。
その点、今回のような鋳造による作品は、別の可能性を秘めている気がする。ガラスを極めて長い時間をかけて鋳造すると、内部が詰まった状態で、透明になる。
板状や、中が空洞というのが、筆者にとってのガラスのイメージだったので、まずこのガラスが詰まった存在感、言い換えると、透明な塊というありようがとてもインパクトがある。
新實さんは、すべての作品に《Vessel》(容器)というタイトルを付けている。中が詰まっているのになぜ容器かといえば、それはおそらく、透明な塊の、中に水が入っているような感覚、あるいは、光を宿した存在感があるからだろう。
新實さんの作品は、とうとうと流れる水、そこから、時間の流れのメタファーになるし、宇宙空間を飛び交っている光を、形態として受け止めている、という言い方もできる。
それぞれは、球体、半球や円錐、レンズ形などの形態をしている。また、流動体と名付けて、波打つような起伏を表面に作っている作品もある。
いずれも、プライマリーな形態である。炉の問題や技術面、コスト面などから、サイズや形態がかなり制約されるのではないかとも思う。
こうしたミニマルな形態によって、作品が、光とガラスの奥深い関係を受け止める容器となるのである。あくまで、プライマリーな形態がベースにあって、空間との関わりが生まれるのであって、空間があって形態の本質が生まれるわけではない。
言い換えると、プライマリーな形態があって、うつろいゆく光を受け止め、その関わりのありようが変幻する中で、広がりや空間性が意識される。
筆者は、プライマリーな形態だからこそ、鑑賞者が空間を回遊したとき、様々な時間における光との関係、光の容器という作品の本質が現れると考えている。
ミニマリズムの作品は、自律性がなく、鑑賞者が移動することによって「見ること」が成立する、まさに空間における鑑賞者と作品との関係に依存するとして、批評家マイケル・フリードによって批判されたが、これを逆説的に捉えれば、そのことが、これらのプライマリーなガラス作品の魅力となるのだ。
ガラス作品をミニマルな形態にすることで、現実の時空間における変化の中で、光の容器は様々な姿を見せてくれるだろう。
ガラスのミニマルな形態が今後、どんな展開を見せるか、興味深いところである。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)