AIN SOPH DISPATCH(名古屋) 2022年2月19日〜3月12日
平田あすか
平田さんは1978年、愛知県生まれ。名古屋芸術大学と同大学院で油絵、版画を学んだ。
絵画、刺繍、立体、ドローイング、絵本など、さまざまな技法を用いる作家である。
作品の形式への思考を巡らし、個々の手法を突き詰めるというよりは、メディアを横断しながら、意表を突くイメージを展開する制作態度に特徴がある。
そのイメージは軽やかで恬淡したそぶりを見せながら、物語性、テーマ性が顕著である。
端的にいえば、過去と現在、未来、世界の各地、自然と生態系、宇宙など、想像力とミクロ、マクロの視点によって時空を超え、人間や世界を相対化するような優しい眼差しがある。
そこにあるのは、すべてはつながり、支え合っている、関係し合っているという感覚。
あしき妄想や執着、自己否定、孤独、怒り、対立と善悪を超え、当たり前と思っていた自分自身や世界の解釈、意味から自由になって、安らぎを感じるような物語である。
2022年に開催された「愛知県美術館 若手アーティストの購入作品公開の第3弾 1月22日-3月13日」も参照。
2022年 花信風
AIN SOPH DISPATCH(名古屋) 2022年2月19日〜3月12日
「盗まれた舞台」
絵画の大作「盗まれた舞台」が、今回展示されたメインの作品である。「私」とは何かという問いが背景にある。
「私」は確固とした自分をもっているように見えて、感情、心の状態、態度は、天気のように目まぐるしく変わる。人間は、自分のことが分かっていない。
性格や人格など本質的な部分ですら、腸に存在する細菌や寄生虫によって変わっていく—。近年の研究成果から分かってきたそんな主題性を、平田さんはこの作品に込めたようである。
「私」とはいったい何なのか。
そもそも、私が、目の前にいる「あなた」を見ているとき、それは実体でなく、そのとき、私が見ている「あなた」のイメージに過ぎない。
あなたが見ている「私」も、実体ではなく、あなたが見ている「私」のイメージである。
お互いのイメージは、「私」のほんの一部であって、同時に、そのときに解釈されたものである。
それは、存在というより、出来事である。仏教でいうところの色即是空、空即是色である。
事実は、その瞬間、「私」がそうしているということだけであって、ここにある「私」は、誰かや何かと「ともにある」という関係性、相互作用においてのみ存在している。
この作品では、あやとりをしている上で、オペラ歌手が口を開けている不思議な図像がモチーフになっている。
あやとりをする両手は、望洋とした空間の下から不意に現れ、女性は舌を出す奇妙な表情をしている。
あやとりは、たった1本のひもが、右手と左手の十指の相対的な位置関係によって、さまざまなものに変化する。
人間も一定の存在ではなく、出来事としての現れである。見えるものが、見えないものとの関係性で成り立って変化する。そんな作品ではないだろうか。
「音と光」
瞳とそこに映っているものをモチーフにしたイメージは、平田さんの作品によく登場する。
2020年の個展では、ドローイングで制作されたが、今回は、刺繡の作品「音と光」である。
瞳と瞳の中のものとの関係は、前述した「私」と「あなた」の関係と同じである。
これも、見る、見られるという関係性、相互作用によって、お互いが存在している。共生の本質といってもいいだろう。
平田さんは、世界が成り立つ関係性を繊細なまでに自分の作品の中に取り込んでいる。
2020年 大地の音
AIN SOPH DISPATCH(名古屋) 2020年3月28日〜4月11日
展示は、100号サイズのキャンバス3点を横に連ねたパノラミックな大作が中心。他に、絵本の原画ともいえるドローイング類がある。
アクリルの大作絵画は、2012年に描き始めてから、一度、手が止まった作品で、2019年になって制作を再開した。
キリンやサイ、ワニ、ラクダなど野生の動物が描かれ、その全てが右方向を向いて、たたずんでいる。画面の右端には、裸の女性が同じく右方向を向いて立っている。
もちろん、これは空想上の情景。2007年にアフリカ・ケニヤのナイロビで1カ月ほど、滞在制作をしたときの体験が反映していると推測される。
誰の目にも留まるのは、まるで人間が着ぐるみを着たように動物の四肢の下から、人間の手足が出ていることだろう。
このように異なるイメージが不意につながっていくのが、平田さんの作品の特徴の1つである。
それらは、顔など人間の身体の一部または全身、昆虫、獣、魚、雲、鳥、山や海、植物などで、シームレスな、意外なつながりがある。
シュールでありながら、どこかコミカルな感じもする。
今回の作品で、筆者が注目したのは、人間を含む全ての動物が同じ方向を見ていることである。同じ空間を共有し、互いに共存しながら、相対せずに1つの方向、すなわち裸の女性と同じ方向を見ている。
同じ方向を見て、つながりをもちつつも、それぞれがしっかりと大地を踏み締め、地球の感覚とともに全体性を感じている。
この光景をあえて図式化すれば、生き物の多様性の光景、そして、人間を含め、この地球上に生きている動物たちが仲間であるという、ある種、牧歌的な光景ではないだろうか。
裸の女性は人類を含意するし、動物たちは生きとし生けるものを象徴する。
動物の中に人間がいるような擬人法的な姿は、動物と人間を同じ次元で考えるという解釈であながち間違っていないだろう。
ここが肝心なのだが、裸の女性もまた人間の着ぐるみを着ているように、手足のところから別の手足(本当の手足と言ってもいい)が出ていることだ。
動物の四肢から現れている人間の手足が、動物の中にある「本当の自分」を表しているとすれば、人間から出ている手足も、そうであろう。
つまり、このサバンナで同じ方向を見ている多様な動物や人間は「心」を持っていて、その「本当の自分」に還っている。そして戦いのない世界で思いを共有している。
「本当の自分」は、つながりの感覚と言ってもいいものである。そんな光景だと、筆者は受け止めた。
平田さんは大学で油絵を学んだ後、版画を中心に制作。その後、多様なメディアへと移行した。
刺繍に見られるように線で表現するタイプの作家で、絵画も塗りは抑え、素朴な味わいがある。
今回の絵画も、アクリル絵具で淡く描き、マチエールを強調していない。線でイメージを紡ぐ作家なのである。
作品に見られる異質なイメージの出合いと結合は、平田さんの中で、ほとんど無意識に湧き上がってくるようだ。
言葉より先にイメージがあり、それが見る者の中で言葉に結びついて、物語性を生む。
今回、平田さんが絵本「いきものの小景」を制作したのは、この流れを逆回転させる、つまり、言葉をつづることで、自分の中のイメージと言葉の関係を探った。
「縄文人はシミができやすい」「ネアンデルタール人は胴が長く足の短い因子を持っている」。
絵本にある言葉は、平田さんが紡ぐイメージと結びついた思いを示唆している。
シミや短足など、人間や日本人が持っているどちらかと言えばネガティブな部分も、縄文時代や化石人類の時代まで長い歴史を遡るように想像力を羽ばたかせていけば、嫌な気持ちにならず受け入れられる。
世界全体を愛し、現在のみならず過去、未来へと、眼差しを飛翔させて俯瞰すると、世界を見る目も、自分を見る目も優しくなる。
土の中のヒメミミズや、センチュウ、土 を ほぐし て 肥沃 にするフンコロガシ、菌類、細菌類、人間の中の遺伝子や細胞・・・。
小さな世界、見えない世界、見ていない世界を思うと、やはり優しい自分になれる。
平田さんはミクロ、マクロ、小さな生き物から大きな宇宙まで自在に思いを巡らし、人間の身体と自然界の多様なものをつなげて、ネガな思いをポジに変換させる。
瞳に映る世界のイメージを私たちは選べるということ。
身体を形作っている細胞、遺伝子に目を向ければ、同じように、見えていなかったいろいろなものがつながり、世界を俯瞰できる。
大きく世界を眺めることで、あるいは小さな存在に目を向けることで、ネガティブなものがそうでなくなり、心が軽くなって、幸せな気持ちになる。
囚われていた「私」から離れ、着ぐるみのような人間や動物の中にいる「本当の自分」へと還っていける。
身体と自然、動植物、日常や過去の経験、人生の断片、感じたこと、記憶など、さまざまなイメージがシームレスにつながっていく平田さんの作品は、空想力が時空を巡ったものである。
それによって、目に見える世界、実体だと思い込んでいる感覚から離れ、囚われていた自分から「本当の自分」に還っていくことができる。
制作とは、平田さんにとって、気持ちが楽になる関係性を見つけていくプロセスであると言ってもいい。
見えない生態系、進化や歴史の断片のつながりの恩恵の中で生きていることを知ること。
それは必ずしも美しいもの、心地よいものばかりではない。グロテスクなもの、汚れ、短所、不快と思えるものがあっても、それらを含めた上での時間と空間を超えたつながりである。
平田さんの作品が、身体と花、魚、動物、植物、山や海などが一緒になった異形、キマイラのようであるのはそのためだろう。
時空を超えた見えないつながり、遠くのものと結びあうことによって、優しく、愛を感じる「本当の自分」に還っていける。そんな作品である。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)