ガレリア フィナルテ(名古屋) 2020年11月24日〜12月12日
日野田崇さんは1968年、神戸市生まれ。大阪芸大の工芸学科陶芸コースを卒業している。京都府文化賞奨励賞受賞。
筆者のこのWEBサイトでは、記事を分野別に分けるメニューのジャンルに「美術」と「工芸」があるのだが、日野田さんをどちらに区分するのか迷った。
実際、今回の個展会場を訪れたある美術館関係者は、「これは陶芸というよりは、もう現代美術ですね」と語ったという。
日野田さんの作品の完成度が高いこと、作家として力があることは、会場に足を運べば分かる。工芸か、現代美術か、はどちらでもいいのかもしれない。
全体から受ける印象は、現代性、そして空間にグルーブ感があること、作品の饒舌さである。
単体の造形物も、形態が複雑に変形。表面の過剰なグラフィックによって、目まぐるしい速度の渦に巻き込む。
日野田さんの作品については、2017年に、「Imura art+books」(京都)から日野田さん自身が出した図録がとても参考になる。
中でも、2015年の「実在する土—第18回シャトルゥー国際陶芸ビエンナーレ」の展覧会カタログから抜粋された日野田さんへのインタビューが有益である。
立ち位置の判断の難しい作家であることは間違いないが、日野田さんは、清々しいほどに自分の制作スタイルを信じて進んでいるのである。
実際、日野田さんは、インタビューで、アートや工芸の分類の概念や制度に拘泥することなく制作してきたと答えている。
こうした自身の作品を、日野田さんは「手色形楽(しゅしきけいがく)」という造語で説明する。
日野田さん自身が、明治以降に導入された訳語「美術」に代わる言葉として位置付けているキーワードである。
それは、日本で流通する曖昧な言葉である「アート」でも、西洋の「ART」でもないという。
個展のリフレットに記された日野田さんの言葉を解釈すると、それは、概念的な方向に向かいすぎず、むしろ、作品の具体的な色や形が見る者に感覚的な喜びを与えてくれるもの。併せて、現代の世界、社会を反映しているもの、である。
同時に、自身の制作をジャンルで矮小化するのではなく、身体、とりわけ手を使って作り上げる「肉体労働」と捉えている。
筆者自身は、日野田さんの作品を、土素材を使った現代美術に近いものだと考えている。
工芸、現代美術のいずれであるかということではなく、議論のポイントとして、興味深いところなので、その辺りに少し触れたい。
というのも、実際、日野田さんの作品には、工芸的なところ、現代美術的なところが共存しているからだ。
インタビューからは、現代アートと前衛陶芸をはじめ、実に多様なものから影響を受けたことが分かる。
日野田さんが大阪芸大で陶芸を学んだとき、山田光さん、柳原睦夫さん、林康夫さんなど、四耕会や走泥社など前衛系の作家から影響を受けたという。
また、 影響を受けた作家としては、フランシス・ベーコン、フィリップ・ガストン、ペーター・フィッシュリ&ダヴィッド・ヴァイス、ジェフ・クーンズ、ラリ・ピットマン、バリー・マッギーなど、幅広い作家の名前が挙げられている。
ほかにも、日本の特撮やアニメーション、大津絵、街中のグラフィティ、アメリカのイラストやコミックス、スティーブ・ライヒや、パット・メセニー、トッド・ラングレン、ウェザー・リポート、ブラジル音楽など、広範な音楽の影響にも触れている。
なんといっても、基本的に立体の素材を土に限定しているところは、工芸的である。グルーブ感のあるインスタレーションの展示方法を取っていても、立体の素材は原則、土である。
これは何よりも、工芸の大原則である。
樹脂などを型取りすることもできるだろうが、あえて土の可塑性や、素材感を生かしている。
日野田さんが現代美術寄りと言われようが、やはり、好きだからこそ土を選んだのだと思う。
立体の部分の形態を見ると、器の口のような開口部がある。これも、器物をベースとする陶芸の基本的属性である。日野田さんは、焼成したパーツを組み合わせて、人形を作っているが、それぞれのパーツの形態には器に近いものが残っている。
また、土の造形による凸部を目に、開口部を口に見せ、取っ手の部分を人形の腕にするなど、造形に応じた彩色をしているところも、工芸的である。
一方、表面を覆うグラフィティ、コミックスのようなイメージは、現代美術的である。マスキングによる明快な図像、紫のような鮮烈な色彩もそれに加担する。
バリー・マッギーなど、ストリート系のアーティストの影響が感じられるゆれんである。
そうした装飾のグラフィックが造形とは関係ないところにも広がっているのは、現代美術的である。
つまり、工芸プロセスから生み出された形態の本質性とは直接的な関係のない頭蓋骨、学生服姿の人物や、抽象的なイメージなどが描かれている。
また、先ほども書いたが、空間的なグルーブ感を感じさせる展示方法も、工芸の本質的なものではない。
日野田さんは、都市文化で消費される情報の速度、無意識的に展開する夢の中のイメージが、こうした作品のスタイルに関係していると、インタビューで説明している。
会場に合わせ、その時々の展示プランに応じて変化するインスタレーションこそが、立ち現れては消える現代社会の速度と変化、情報の過剰性を表象しているともいえる。
現代美術的な特徴で言えば、造形物全体を土素材で積み上げるのではなく、土で作ったパーツをプラモデルのように組み立てていることは、工芸的というより、現代美術寄りの性質である。
筆者は、どちらかを肯定、あるいは否定することはないが、全体を一貫した工芸的プロセスで制作する方が、プラモデルのように後から組み立てるより、工芸的な性質は強く出るとは言えるだろう。
こうした現代陶芸と土による現代美術の素材や造形プロセスを巡る議論については、以前、岐阜県多治見市のギャラリーヴォイスであったシンポジウムを基にした記事「工芸的造形への応答」で詳しく紹介したことがある。
日野田さんの作品は、造形的に優れ、表面に描かれたイメージもとてもインパクトがあるが、それゆえにパーツを組み合わせた複雑な形態やグラフィックに引っ張られて、工芸の印象が後退する部分は、どうしてもある。
また、訴求力がある大型の作品のほうがアート的に見え、素朴な小品のほうが工芸的に見える。
おそらく、それが、立ち位置の難しさということなのだろう。
とても、力のある作品であることは間違いない。全体では、速度と、過剰性、エネルギーに満ちているが、単純にそれを称揚しているわけでもなさそうだ。
日野田さんは、今後も、さまざまなものを吸収しながら、速度と過剰性という現代に対する思考を深め、体を張って制作していくのだろう。