ガレリア フィナルテ(名古屋) 2021年10月5〜16日
早矢仕清貴
早矢仕清貴さんは1959年、岐阜県生まれ。愛知県立芸術大学、同大学院で油画を専攻した。
1980年代後半から、ギャラリーでの個展を中心に絵画を発表。ガレリアフィナルテでは11回目の個展となる。
今回は、人物画を中心に展示。扇風機、オープンラック、畑、人のいる室内の情景なども加えた構成だが、モチーフは絵画空間をつくるきっかけに過ぎない。
実際のところ、モチーフは個展ごとに変化している。したがって、モチーフに気を取られすぎると、早矢仕さんの絵画の面白さを見えにくくするだろう。
自分で撮影した写真、あるいは、インターネットの写真からイメージを借りていて、対象に個性や質感、意味や物語性があるように見えても、それらは仮構されたものにすぎない。
具象的に描いているが、もともとのイメージからは、かなり崩しているとのことである。
モチーフというより、早矢仕さんの関心は、支持体に絵具をのせることで生まれる表象としての事物、空間と、絵画空間との緊張関係にある。
個別具体的なイメージがしっかりあるので、図と地の反転というところまではいかないが、表象と絵画空間とのスリリングな関係を、できるだけ筆致の手数を増やさないでつくりあげることを狙っているのである。
例えば、2012年の個展では、バナナがモチーフである。油絵具を重厚に塗り重ねるのではなく、できるだけ描く手数を減じ、少ないストロークで絵画を仕上げた。
その点、バナナはしなやかなストロークによって特徴をつかめば、それらしく表現しやすいモチーフである。
バナナは、矩形のキャンバスのへりの部分に、数本が画面を囲む円形や矩形として構成され、キャンバスの真ん中は、抜けるような空間になっている。
ここでは、バナナに形の似ている括弧「(」のような役割を与えることで、バナナという図にとっての地が、同時に「(」で囲われた余白であり、絵画空間でもあるという関係性を提示しようとした。
2015年には、黒と白で、人物の胴体部分の黒ズボンと白シャツをクローズアップにして描いた。
ベルトだけは視線を引きつけるように丁寧に絵具をのせたが、シャツやズボンは、素早く描いて空間として見せている。
バナナも、ズボンやシャツも、色を重ねたり、立体的な面取りをしたりはしない。
素早く、必要最低限の描画によって、対象をそれらしく見せつつ、関心はイメージと絵画空間との緊張関係にあるのである。
写真を基に具象的に描いたといっても、イメージはもとのままではない。モチーフそのものに意味がわるわけではないのである。
ガレリアフィナルテ 2021年
主要モチーフである人物も、巧妙にイメージを崩し、もともとの個性が無意味なように描いている。
2019年の個展でも、人物画を展示したが、匿名性を強調するように目を閉じた顔を描いていた。
今回は、目は開けているが、ピンボケで撮った写真を使うことで、没個性的なイメージにしている。
それは、オープンラックや畑など別のモチーフを描いた作品も同様である。
ペインタリーであって、決してドローイング的に淡白に描いているわけではないのだが、そこにあるのは、ある事物の存在の確からしさではなく、むしろ、ニュートラルであいまいな存在感と絵画空間との相互作用である。
つまり、人物なら人物、オープンラックならオープンラックというように、形象が認識されながらも、それらの判別が偶然的、等価的であるような仮象としての絵画空間である。
言い換えると、そこに明快さはなく、あるのは焦点が合わない残像のようなイメージである。
いわば、形象と空間、形象と形象の関係、事物と背景、図と地の関係が揺らぎかねない、等価で、確固たるものとして決定されないような絵画空間である。
それらしく描きながらも、早矢仕さんは、質感や特徴が出ないようにし、視線が落ち着く場所、物語性を回避している。
それは、つくられたイメージであると同時に、通り過ぎた風景といってもいいし、記憶の中のあいまいなイメージ、どこかで見たデジャビュといってもいい。
具象絵画でありながら、写真のイメージを崩して個性を消す、描きこまない、面取りしない、色を重ねない—などの描法によって、その表象の中身は支持体の上で等価である。
その仮象としてのあいまいな具象イメージは、絵画空間としての自律に向け、かすかな揺らぎを与えながらも、そこにとどまり、私たちの記憶と響き合うようである。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)