林裕己写真展-表現者たち 2021年
名古屋画廊 2021年11月26日~12月1日
写真家でパフォーマーでもある林裕己さんが、さまざまな分野の表現者を撮影した写真を展示している。
メインとなるのは、林さんが発行している小冊子「さくらPAPER」のvol.7の特集「久田修“何者でもない生き方の系譜”」に登場する久田修さんである。
久田さんは1942年、三重県伊勢市生まれ。一銀行員として生きながら、文芸評論を中心とした著述活動を続けてきた人で、筆者も若干の接点がある。
そのほかの被写体は、舞踏家の大野慶人さん、パフォーミングアーティストの西島一洋さん、美術家の篠原有司男さんなど。
篠原有司男さんの写真は、2017年に愛知・刈谷市美術館で「篠原有司男展 ギュウちゃん、“前衛の道”爆走60年」が開催された際のボクシング・ペインティングである。
そのほかにも、会田誠さんと岡田裕子さん、アラーキー、ゼロ次元の加藤好弘さん、書家の石川九楊さんなどの写真が展示された。
画家の今村幸生さん、加藤松雄さん、美術家の杉山健司さんなど、地元の人も多く取り上げている。
林裕己写真展「表現と家族」2010年
織部亭(愛知県一宮市島崎) 2010年10月16日〜11月14日
写真家でパフォーマーでもある林裕己さんが美術を中心に、接点のある作家や現場に関わる知己の家族を撮影してきた写真。撮影は2004年に始まった。
もともとは月刊雑誌「中部経済界」に連載され、家族の肖像写真に、作家の人生哲学、家族の歴史、エピソードや撮影の様子などを取材したエッセイを加えて発表した。
会場の展示では、写真35点を掲示し、エッセイはファイリングして読めるようにした。
例えば、林の恩師の画家、森真吾さんの写真では、森さんと車椅子の妻が寄り添い合う。
撮影後に亡くなった認知症の妻と森さんとの関わりが書かれたエッセイ「永遠の家族の棲むところ、絵画の生まれる故郷へ」では、夫婦の生き方と林さんの観察眼に引き込まれる。
大野一雄さんや野々村宇旦さん、西島一洋さん、水野シゲユキさん、吉本作次さん、杉山健司さん、加藤マンヤさんら、その他の作家たちの写真、エッセイも感慨を抱かせる。
作家のほかにも、愛知県一宮市で現代美術を広げ、併せて悪性リンパ腫と闘ってきた織部亭の大島誠二さん、美術家に和紙を提供している美濃和紙職人の保木成敏さんらが登場する。
写真を見て、エッセイを一つ一つ読んでいくと、それぞれが人生と芸術に真正面から向き合ってきた事実が深く響いてくる。
写真はもとより、家族の葛藤、あるいは愛情を飾らず書きつづったエッセイもよく練られている。
なるほど、「アート」の世界でも家族や人間関係、芸術と人間のありようは盛んに取り上げられてきたが、それは通常、物象化され、商品化されてきた。
その意味で、物象化、商品化を回避している林さんの巧まざる作品はいわゆる「アート」ではないのかもしれない。
家族は自分自身と密着した存在であり、そうでなくとも、人生における最小の共同体なのだが、同時に、人は全く別物の個として生きている。
多くの場合、生活に直結する家族は、平凡な人生へと作家を導く強烈な引力だ。林裕己さんがこうした写真やエッセイを発表できるのは、林さん自身も葛藤を生きてきたからだ。
この作品自体、林さんの家族が別の家族を訪ねて撮影するというコンセプトで成り立っていて、林さんは原則、撮影の場に妻と当時、小学生だった娘を帯同していた。
家族と作家(表現)は両立できるのか。生きるとは? 家族との生活をどう守るのか? 仕事とは何か?
葛藤を引き受けて生きる林さん自身が、取材対象の作家や家族から素直に感得するものが実に深い。
芸術と人生(家族)のどちらを選ぶか。思い出したのは、トーマス・マン「トーニオ・クレーガー」。
トーニオもまた、芸術と人生の間で揺れる。「真の創造者でいるためには、死んだも同然でなければならない」
高踏的に生きてきたトーニオは、その一方で「この上なく幸せで平凡な人生を生きて、愛し、神を称えることができたら」と家族との普通の生活にも憧れる。
トーニオは最後のクライマックスで、悔恨と郷愁にむせび泣く。芸術と人生の間に立ち、葛藤する「普通の人」として、もっといいものをつくりたい、でも自分が一番深く愛するのは、「平凡な人たち」なのだと告白する。
そして、私は、トーニオに重なる林の写真の作家たちにも同じように惹かれるのだ。
本稿は、芸術批評誌「REAR」(2011年26号)に掲載された。