ギャラリーA・C・S(名古屋) 2019年5月11日〜5月25日
長谷川哲さんの作品は、コピー機を使った独自の過程で制作される。風景などのモノクロ写真を撮り、プリントした後、改造したコピー機にかけ、トナーの黒粉が定着せず未だ浮いている段階で、へら状のものなど様々な道具によるストロークとともにトナーの粉を斬りこむように飛ばし、荒々しい筆触のような、スピード感ある痕跡によって、現実的なイメージを操作する。そうして、改めて画面をイメージ化(写真あるいは動画で撮影)し、大きく引き延ばす。
これまでも、家を題材にするなど一定の継続的なテーマを定め、バリエーションを展開。現実を写した写真が基になっているはずなのに、当初のリアルな現実のイメージをかき消すことで仮象としての世界を一層印象付けるとともに、身体的ともいえるその激しいストロークによって力強い表現を可能にしてきた。
たとえば、「HOME」(家)のシリーズの時も、一軒の家だけを残して、周囲をストロークの痕跡によって消すことで、その家がシンボリックな意味合いを帯びていた。改造コピー機を通して、機械的に生み出されたトナーが浮かび上がったかりそめのイメージを操作し、版として写真に転写するというプロセスから、版画という範疇でも捉えられてきた。版画の分野から、版の概念を拡張し、新たな表現手法を獲得するに至った多くの美術家は、従来の版画では得られなかったイメージを生み出し、そこに新しい見方、現実の風景の再現ではない、全く異なる意味を見る者に意識させる。長谷川さんの作品も同様である。
1990年代だと思うが、長谷川さんの作品を初めて見たとき、荒々しいストローが走る表現から、ある種の殺伐とした寂寥感、あるいは過激な雰囲気を感じ取った。同時にその動勢から、制作した時の身振りについて想像した。しかし、あとで述べるように美術家のアクション自体は大きなものではない。
人物を題材にした今回の一連の作品では、一定の距離を置いて、相手が気づかないように人物を撮影しているので、ごくごく小さな名も知れぬ、行きずりの人を除けば、なんの変哲もない街景というほどのイメージである。また、人物以外のトナーを激しいストロークでかき消すために、画面のイメージはほとんど線の集積へと変容し、密集した線の動勢によって、その人物さえもが侵食を受けそうになりながら、なんとか留まっているように見える様相である。題材は、2017〜19年、名古屋やシンガポールなどの街角で撮影された行きずりの人、現れては消えた人である。
知らない人を遠方から撮影するという物理的な距離、カメラという非人間的な光学機械を通して捉えた純粋なイメージとしての距離、コピー機という機械(しかも改造して最終的なコピーに至る前に取り出せる)を通過することで、人間の手を離れる距離、そうして生まれた版を経由するという距離。版画作家の多くは、版を通すことの面白さ、ある種の制作上の迂遠、距離を選ぶことへの興味を口にする人が少なくないが(それは陶芸における窯での焼成のようなものか)、長谷川さんの場合は、人間のコントロールから離れる多層的な距離が作品に大きく関わっている。
距離によって生み出されたイメージ、安定感を欠いたはずの仮象は、それを消していくというマイナスの痕跡によって、侵食され、実在感を失っていく。孤絶な家や人物は、ストロークの激しさ、侵食を受けながらも、それに耐えて持ちこたえるようにそこにあることで、逆説的に強度を増す。長谷川さんの作品のユニークさ、面白さはおそらく、ここにある。
加えて言うと、この激しいストロークに晒されながら、耐えるようにそこにある人物、かつての作品であれば家は、そうした人間や家を囲む環境、同時代の制度、社会情勢の厳しい現実を逆照射するように指し示す。
新たな試みとして面白かったのは、作品の基になったスチール写真や、逆回転させた制作過程の動画を展示したことだろう。こうした動画を見ると、コピー機から取り出した紙がそれほど大きくなく、イメージをかき消すストロークの身振りは小刻みなものであると分かる。完成した作品と、スチール、ムービーとの関係が興味深く、イメージと現実、人間と機械、存在と世界など、様々な思いを巡らせた。