原菜摘
原菜摘さんは名古屋市生まれ。2009年、愛知県立芸大の彫刻科を卒業している。
筆者は見ていないが、2015年のギャラリーラウラの個展では、自画像をモチーフにした木炭による作品等を発表した。2020、2021年の個展では、花の写真を展示している。2023年の個展はこちら。
原菜摘さんのWEBサイトのプロフィールによると、父親は彫刻家の原裕治さん(1948〜2007年)。その父親から、彫刻、絵画を学んだという。
愛知県立芸大卒業後、ベルリン、ニューヨークに行き、とりわけ欧州の文学、絵画、クラシック音楽に影響を受けた。
手元にある原裕治展(2012年、愛知・碧南市藤井達吉現代美術館)の図録によると、原さんが亡くなったのは2007年。まだ59歳だった。
筆者は個人的に大変お世話になり、美術記者だった30代から親しく声をかけてもらった。2人で東京のホテルで痛飲したこともあった。
そんなことも思い出しながら、2020年に続いて、2021年の個展会場に足を運んだ。
2021年 APHRODITE
ギャラリーラウラ(愛知県日進市) 2021年10月2〜12日
菜摘さんは、カラバッジョなどのバロック絵画に傾倒し、闇の世界を追究した時期がある。
2020年の同じ画廊での個展《fleur》では、花を撮影したモノクロームの写真を見せたが、今回は一気に色の世界へと飛躍した観がある。
2020年の個展の作品がドローイングに近いイメージとすれば、今回は、力強いペインティングの雰囲気である。とりわけクローズアップにした作品は活力を感じさせる。
闇からモノクロームへ、さらに色彩へという流れである。しかも、真紅というべきか、その色彩は形と一体となって強い生命力を感じさせる存在感とともにある。
宝石のように美しく艶やかで、生命を宿した惑星のようにその塊にエネルギーをたたえている。
クローズアップの作品では、一枚一枚の花弁が精緻に写され、造化の妙というべきか、自然が見せる摂理と神秘性が闇の中から浮かび上がっているようである。
花が絵画的なのか、あるいは、絵画的に捉えているのか——。菜摘さんが見事なほどの自然の造化を撮影したイメージは、逆説的に絵画的で、そして彫刻的である。
カメラを使って描いている、あるいは彫刻をしているという意識が菜摘さんの中にはあるらしい。一部には、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画を参照したものもある。
そのドラマチックなたたずまいに触れると、これらすべてが自宅で自然光によって撮られていることに驚きも覚えた。
演出ということからは遠く、1つの花の生命力、エネルギーそのものに、自然の根源的な姿を見ているのである。
だから、撮影は、季節や時間、天候によって異なる自然光の移り変わりに任せるのみである。
数年にわたって苦しめられ、西洋医学では原因さえ分からなかった体の不調を回復へと導いたのが東洋医学であったように、自然は、菜摘さんに欠かせないものである。
菜摘さんのみならず、すべての人間にとって、人間と自然との関係の回復、全体性を取り戻すことは、なくてはならないものであろう。
自然の力によって生命力を取り戻すことは、菜摘さんにとって自己治療なのである。
花が自分を助けてくれると、菜摘さんは話す。それによって、菜摘さんは、感覚が研ぎ澄まされ、自然界の法則や、それと呼応する体の中のリズムを感じるようになった。
いわば、自然と菜摘さんが一体化する中で、自然の法則と、それが律動するように身体に響き合うもの、そのダイナミズムとして、イメージが現れている。
つまり、花が菜摘さんの形として現れている。
父親の原裕治さんが遺したワイングラスや作品を撮影したモノクローム写真のシリーズ「ソネット」も初出品されている。
菜摘さんによる自作の詩と重なるイメージである。
2020年 fleur
ギャラリーラウラ(愛知県日進市) 2020年11月14〜24日
美術評論家で、筆者の師友である馬場駿吉さんがチラシに書いた文章によると、絵画に取り組んできたが、その後、体調不良に苦しみ、今は、花のさまざまな姿態、細部にカメラを向けることで克服しつつあるという。
菜摘さんのWEBサイトのプロフィールには、次のような文章もある。
影がなければ光は存在しない。
原菜摘さんのWEBより
私は画家として黒の中の黒、究極の闇を追求し死の世界に傾倒した。
その結果、健康を害し、一時は芸術活動はおろか、生命の危機にまで直面した。
しかし、長い闘病生活は、死に憧れていた私に生を渇望する自分を見出させた。
私は太陽を欲し、花を愛し、自然の神秘性に触れた。
今、私は光の世界にいる自分を見る。
原菜摘
闘病生活の中で花を見いだし、その自然の神秘、生命力が写真作品のテーマになったのである。
カラー、バラ、アネモネ、チューリップ、麦などがモチーフである。植物は、聖書から選んだとも聞いた。
「彫刻するように絵画を描き、絵画を描くように写真を撮る」。
菜摘さん自身がこう書くように、写真でありながら、植物の細部の線と面、質感、光と影を大切にしているせいか、自然であるのに、描いたような(花が自らを表現したような)豊かな表情が現れ、そして、彫刻のような存在感がある。
この逆説は、存在の神秘ともいうべき生命と形態、線や面、色彩、光と影の結合である。カラーなどの花をモチーフにした一部は、美しい女性の身体のように見える。
amour(愛する)、résurrection(復活)、double(ダブル)などのシリーズがある。
doubleでは、2つの植物の写真が対話をするように構成されている。
これらの作品は、デジカメで撮られている。特に大事にしているのは、自然光で撮影することで、画像の加工は一切していないという。
自然の陽光、空間の中で植物の形態が織りなす光と影、植物の命が交わる瞬間が、菜摘さんの生と結び合う時間。
命の神秘、自然の豊かさが刻印されたイメージがここにある。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)