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生き続ける芸術 ハシグチリンタロウ・堀尾貞治

Gallery NAO MASAKI(名古屋) 2019年7月27日〜8月11日

 昨年11月に79歳で亡くなった堀尾貞治さんと、アナーキーなパンク書家の若手ハシグチリンタロウさんの2人展。

 なお、2021年4月のハシグチさんの個展はこちらを参照。

 2人を組み合わせたのは、ギャラリストなのだが、実際のところ、2人には共通点が少なくない。

 一つに、正規の美術教育を受けていないか、受けていても、そうした既存のシステム(画壇や書壇)、既成の概念に甘んじることなく、自分の中にある根源的なものによって突き動かされて制作していること。

 誰でも入手できる安価な画材を使い、ヒエラルキーを転覆させていること、そして、日頃、生きること、外界と内面について思うことはあっても、制作に向かえば躊躇なく、勢いよく奔放で開放的あること。

 こうした姿勢を大上段に構えることなく、理知的であることから逃走し、日常の中で自然体に生きることにこそ真実を求める点も2人が共有する部分である。

 2人とも、権威やお金を持たざる者、である。

 もちろん、制作する上での一定の技術は持っているのだが、それに自分が支配されることをよしとしない。持たないことは、別の何かを持っていること、持っている者が決して持ち得ない何かを持っていることを忘れてはいけない。

 彼らにとって、制作することは名誉やお金など欲望のための武器ではない。世界で認められ、知的な文脈に乗って権威や美術史の一部となることを目的化していないし、かといって、適当にやっているわけでもない。

 その点、2人は、自分の内なる声、素朴な思いにありのままに行動してきた。その意味で、理論や歴史も一切アプリオリなものはなく、純粋という意味で子供じみている。

 出会い、無邪気に、素朴に自分で決めたことを反復する。それは規律ではなく、信念のように堅苦しくもなく、「生きること」の真実である。では、順に見ていこう。

堀尾貞治作品

 堀尾は1939年、神戸市兵庫区生まれ。65年、第15回具体美術展に初出品し、翌年、具体美術協会の会員となって解散する72年まで参加した。

 85年から「あたりまえのこと」というテーマを掲げ、生活そのものが制作という日々を亡くなるまで続けた。

 個展、グループ展、パフォーマンスを含めると、年間100回に上ると言われるほど精力的に活動したといわれる。

 筆者は、生前、本人に取材したことはなかったものの、折々に作品は拝見した。印象にあるのは、阪神在震災から5年後の2000年、芦屋市立美術博物館の「震災と表現」展である。

 ここで、堀尾さんは、倒壊現場で描いたドローイング「震災風景」を出品していた。当時、30代半ばだった筆者は、当時の新聞記事に「破壊のすさまじさ、生々しさ。それを前にした作者の感情の渦が、(震災の)風化への警鐘のように見る者に突き刺さってくる」と書いた。

 今回も、無造作に設置されたさまざまなオブジェに、一日一色一本のアクリル絵の具を塗り重ねる作業を続ける「色塗り」や、山積みの画用紙に手当たり次第の画材、コラージュを駆使して1分ほどの猛スピードで次々と仕上げ、思考を排除するドローイング作品「一分打法」など、いずれも毎朝の日課として続けたシリーズを中心に、数多くの作品が展示された。

堀尾貞治作品

 「色塗り」では、支持体に木っ端を貼ったもの、さびた釘、木片、番線、川石、そろばん、重ねたはさみや、バリカン、金網など、さまざまなものに絵の具が塗り重ねられ、オブジェ化させている。

 ドローイングは、人物イメージ、図面のような抽象や、不定形な線、絵の具を擦り付けたもの、雑誌グラビアのヌード写真のコラージュなど、およそ統一感のないものが飾られている。

 それらは、朝ごはんや掃除、洗濯、お風呂と一緒の生きた痕跡のような日課である。

 空気のように当たり前で意識に上らないものだけど、それゆえになくてはならないものを反復することで可視化していく、普段は生活に埋もれてしまっているものを見えるようにする。

 中学卒業後、三菱重工神戸造船所で働いてきた堀尾さんはこうした取り組みを、1998年に三菱重工を定年退職するまで、サラリーマンをしながら、早朝と退社後の時間のやりくりの中で制作した。

 会社員の頃は給料、定年後は、年金で生活。お金とアートの関係は複雑だが、一つの生のスタイルとして、職業アーティストでなく、作品をお金に還元しないこうした姿に筆者は今、とても共感を覚える。

堀尾貞治作品

 横尾忠則現代美術館学芸課長の山本淳夫さんは、テキストの中で、こうした旺盛な創作活動を展開した堀尾さんがそれでも具体解散後は、神戸、阪神間のアンダーグラウンド的存在で、国際展などに出品しつつも、「ローカル作家の域」だったと書き、近代性と前近代性が共存する特異性を「無常」「自他不二」「不可知」という、仏教的な用語から読み解いている。

 よく言われることだが、具体が真に屋外空間などで展覧会を開催し、先駆的、実験的な作品を生み出したのは、初期の1954年からの5年ほどに限られ、堀尾が加入した60年代半ばは、前衛美術の運動体としての歴史的な役割は終わっていた。

 そうした中で、堀尾が具体解散後に作品を充実させていったのが、連綿と続けてきた「色塗り」をはじめとする「無常」の作品、つまり絶えず変化していくことを作品にした試みである。

 空気のようにさりげなく、しかし、日常の中で自分と出会うもの、自分を包むものとその場その場で一体となって、理知的な意味合いではよく分からぬままに、生の痕跡のような試みを膨大に、恐るべき速度で(しかし、それは人間的なスピードであった)素朴に続けていった。

ハシグチリンタロウ作品

 一方、ハシグチは、堀尾が「あたりまえのこと」を始めた1985年、長崎県に生まれ、福岡教育大で書道を専攻した。

 大きな影響を受けたのは、10代で出合ったパンクロック。他にも前衛書の井上有一や土方巽の舞踏、白髪一雄、村上三郎などの具体美術協会、岡本太郎などから幅広く吸収した。

 日常から離れた高価な筆を使うことをやめ、安価なタオルを筆がわりに書いている。

 制作する作業場は、農家を営む長崎県佐世保市内の母方の実家の八畳和室。幼い頃から書道は取り組んでいたが、臨書は美しいとは思っても自分がやりたいことではなかった。

 伝統の書に馴染めず、反骨のパンクと書の接点を見いだすことで可能性を広げた。その最たるものは、技術も大事ではあるが、それ以上に自分が言いたいことを表現すること。それは、自分の存在と、言葉を書く行為があればいいというラジカルな考えでもある。

 初期の2009年頃には、書の延長として、木工用ボンドを頭からかぶるというパフォーマンスも敢行。こうした一連の試みを、ハシグチは、身体と最小限の道具、工夫で表現するという原初の行為として実践している。

 紙と鉛筆があればいい、手に墨をつけて書けばいいという発想は、書芸術は筆で書くものであるという固定観念を超え、2011年頃には、チープなタオルで書くようになる。当たり前のように使われていた高価な筆や画仙紙が日常的な素材でないとして疑問を向けたのである。

 これが果たして文字なのか自分でも説明できないというハシグチの言葉からたぐり寄せるならば、分からないことを希望、救い、進歩、大事だと考えた堀尾との共通点を見ることができるだろう。分からないけど、内にある断片、引っ掛かりが言葉として自分の外に出て書かれたとき、それがハシグチの言うところの「言霊」となる。

ハシグチリンタロウ作品
ハシグチリンタロウ作品

 今回も展示された「poor men」(持たざる者)は、ハシグチ自身であるとともに、この世の中にあまた存在する大多数の者たちへの共感である。

 金、権力、時間、スキルはなくとも、自分を表す最低限のものがあればいい。最初に、「持たないことは、別の何かを持っていること」と書いたが、ハシグチは、何も持っていないと自分で思っている人も、実は何かを持っていて、それが輝きだすオルタナティブな自己存在を信じている。

 そこにもまた、自分の無力を知りつつ、誰かと出会い、制作の場を白紙の状態で共有し、自他の区別を乗り越えていく堀尾との共通感覚を見る思いである。堀尾は、職場でたまたま出会った周治央城との共同作業でベニヤ板を版木とする木版画連作「妙好人伝」を制作した。

 だから、《poor men》は、必ずしも憐れむべき存在ではない。むしろ、可能性を秘めた存在である。ハシグチが書いた《poor men》に尖った記号のような形が多く書かれているのは、内なる自分の制約、限界を打ち破るエネルギーの現れなのである。

 そうした強い思いは、スピーカーのイメージを言葉として書いた別のシリーズ《MEI SOUND SYSTEM》にも顕著である。言葉を当てはめると「鳴サウンドシステム」。

 言葉なり音楽なり空気中に雲散霧消する音の響が、音響システムによって記録され「再生」することの象徴性、すなわち、音のリインカネーションを意味論的に拡大したメッセージの連作である。

 パンクに見られる行き場のない感情や憤り、不満の声が再生され、その思いが時空を超えて、全く知らない人と共有されるというのは考えてみると、すごいことであると。

 持たざる者同士のつながり、そうした精神性の広がりと継承をハシグチ自身が身をもって実践していると言ってもいいだろう。ハシグチは、型押ししたようなスマートフォンの文字でなく、日常のむき出しの生に起因する一つの精神の運動、その言霊、衝動として、書の原初的な姿を見出し、挑んでいる。

 2人は、ともに緻密にノートに思うことを書いているが、実際に制作するときには、それらは後退して見えなくなる。むしろ、前面にせり出すのは、そうしたメモランダムの枠組みをおぼろげに残しつつも、それを超えんとする生のエネルギーと日常の感覚である。

 2階の展示室に上がると、堀尾とハシグチの書作品が混在していた。もはや、どれが堀尾の作品か、どこからがハシグチの作品なのか、分からなくなっていた。

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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