Gallery HAM(名古屋) 2019年9月21日〜10月26日
1990年代の終わり頃だから、20年ほど前、筆者が書いた新聞の美術評には、井手さんが発表したさまざまな作品が紹介されていたが、一番印象に残っているのは、井手さんの使用済みベッドシーツにイメージを刺繍した作品である。その後、Gallery HAMでの個展を中心に作品は見ていたはずなのだが、ブランクもあって記憶は曖昧になっていった。
個展は5年ぶりというHAMに足を運び、作品が2、3段階、先に進んでいることに驚いた。20年前、汗が付着したベッドシーツに刺繍をするという家事労働的、あるいは手工芸的な手作業が現代美術に結びついた表現には、存在が揺らぎ、日常と自分との距離を測りかねている中で生を刻印する営為のようなものを感じた。今回の井手さんの個展では、ベッドシーツシリーズの後の、鉄板の連作、さらに今回、初めてまとまった形で見せたという絵画のシリーズへの展開が分かり、興味深かった。
井手さんによると、ベッドシーツの刺繍から支持体をベニヤ板、鉄板にした作品へと進み、ここ3年ほどは、油絵を描いている。柔らかなベッドシーツから強い素材である鉄へと進み、さらに油絵の具で同じ効果が出せないかと絵画に進んだ。絵画へと展開させることで、これまでの制作を含め、美術の正統性も意識したようである。併せて、三重県から10年ほど前に神奈川県横須賀市へ移り、自宅周辺の里山の景色をモチーフにするようになった。支持体がシーツやベニヤ、鉄板の場合は、そこに、たどたどしいステッチを繰り返していくという意味では、作業は変わらないのだが、絵画となると本質的に性質が異なる。シーツへの半返し縫いの刺繍から、支持体をベニヤ、鉄板と手応えの強いものに変えた時はドリルで穴を開けて紐を通していったが、絵画では、紐や糸を通すわけではなく、筆や割り箸でステッチのように絵の具の線を載せていくからである。
そうした絵の具のステッチのバリエーションはさまざまである。必ずしも輪郭だけではなく、粗密が陰影となることもあるし、また、非常に線を限定的にして開放感のある作品になっていることもあれば、線の密度が高く、凝集する線によって力強さを増している作品もある。地は単色のように見えて繊細な色合い、濃度の変化をつけていて、非常にデリケートである。黒の地に黒のステッチを載せた作品でさえ、地の黒には微妙な変化がある。また、刺繍糸に該当する盛り上がった絵の具の線もむやみに描いているわけではなく、色に変化をつけている。シーツへの刺繍やベニヤ、鉄板に紐を通していく方法と、キャンバスに絵の具の単線を置いていくやり方は、根本的に異なる。そうではあるが、作家の中では、一貫した意識があるようである。線を引くとき、井手さんが絵の具を「置いていく」と語ったことにこだわりたい。置いていって、つなげる。同じモチーフ、同じ方法論を続ける中で見つけたリアリティーの連続性なのだろう。
線的な素材を編む技法は、古来、世界各地で日常的な道具や衣類、家、舟、祭祀具などさまざまな対象で使われてきた。1999年に横浜美術館で開かれた「世界を編む」展は、主に家庭内で製作されてきた手工芸的な作品を現代美術からアプローチした展覧会だった。編む技法に共通するのは、線が基本であること、そして、編み上げるまでの時間の痕跡があること、それが基礎的な手作業的な動きの痕跡をとどめていることなどである。手芸を取り入れた美術家は、他にもいるが、井手さんの場合、ジェンダー的なテーマによって、刺繍ないし手芸的な行為をしているわけではない。
かつて、井手さんがベッドシーツに刺繍をしたモチーフは、マッキンリーやエベレスト、マッターホルンなど、世界の高峰の等高線だった。トレースした等高線を刺繍していきながら、登山をするように、ひと針ひと針頂上へと進んでいった。単線をつなげていく作業は、伸びやかな線を引くのとは異なり、時間的、身体的な負荷が極めて大きく、まさに登山をするように単調な反復を続けるというシンドサがある。ゲームのルールを自分に課しながら、それを忘れるぐらいに集中し、その行為を楽しむ。というより、そういう時間がないと生きていけない。それは、井手さんにとっては、強固に具象的な日常の中で覚醒し、抽象的な思考を一歩一歩進め、飛躍させる営為のようである。
井手さんは、ドローイングを重ね、写真を撮影したイメージから作品を作る。元の具象的なイメージ、日常の風景と作品は、連続しているが、同時にそこに大きな非連続性がある。それは日常の景色を簡略化する、抽象化するということを超えて、井手さんが生きる際に必要とする、もっと大きな抽象的思考の隔たりである。そして、たぶん、抽象的な歩みを続けることで、日常がいっそう輝くのだ。