Gallery 芽楽(名古屋) 2021年11月27日〜12月12日
柴田麻衣
柴田さんは1979年、愛知県生まれ。名古屋芸大と同大学院で版画などを学んだ画家である。2022年の個展レビューはこちら、2019年の個展レビューはこちら。
版画を深く学んだことで、レイヤーの重なりや、重層的な絵画空間から逆算するようにイメージのレイヤーを重ねていくプロセスが生み出された。
テーマに関係する複数のイメージのレイヤーをモンタージュするように重ねながら、1つの仮象的なイメージを作り上げる。
筆者が評価するのは、多様なイメージと全体の豊かな空間性、画面の透明感、軽やかさ、そして絵画に込めた真摯なメッセージである。
薄く解いた絵具を何度も重ねて支持体に浸透させて透明感をもたせながらも、深みのあるレイヤーをつくる。マスキングも駆使し、明瞭なイメージの存在感を出すよう細心の注意を払いっている。
固定化した物語ではなく、断片的なイメージや点景を構成した空間、多重的なレイヤーによる複雑な遠近感によって、見る者は画面と対話をするように促される。
絵画を絵画として追究しながら、そこに、ナラティブな要素、歴史上のこと、現実に起きたことに対する思いを融合させていると言ってもいいだろう。
しかも、重いテーマを軽やかに澄んだスクリーンのように表現する力量。子育てをしながら、絵画と関係のない仕事もこなし、限られた時間の中で制作に集中している姿勢にも好感がもてる。
近年は、歴史や文化に対するテーマを明確に打ち出している。
大きなイメージと、そこに転写したような人や建物などの小さなイメージ、あるいは区画された別のイメージや抽象的な部分のレイヤーを重ね、眼差しがそれらを行き来さするような画面構成をとるのも特徴である。
こうした作画は、柴田さんが版画出身であることが強く影響している。現在のスタイルは、2013年にVOCA展奨励賞を受けた頃に確固としたものとなった。
2019年の個展レビュー、「情の深みと浅さ」展レビューも参照してほしい。また、後半に2020年の個展「make-or-break」のレビューも掲載している。
ride off into the sunset 2021年
Gallery 芽楽(名古屋) 2021年11月27日〜12月12日
風景を多層的に描きながら、柴田さんの関心は、世界の歴史や文化、宗教、政治、民族へと広がっている。
単に世界を表象するというよりは、差別や紛争、文化の消滅、多様性や自由の抑圧などへの思いが強く、歴史的なイメージを現代へとつなげ、過去から現在へ、現在から過去へと眼差しを往還させるような絵画空間である。
雄大な風景と世界の街角、数千年前と現代、歴史の舞台と日常のささやかな事物が共存。イメージを連鎖させながら、新たな意味作用を生む。
今展では、古代ローマ時代まで遡り、宗教問題と多様性の喪失というテーマが扱われている。歴史と現代がイメージの力によってつながり、差別と不寛容、紛争、抑圧の問題を問い掛ける。
具体的には、ローマ帝国末期の皇帝ユリアヌスがモチーフである。4世紀中ごろ、ギリシア文化の影響を受け、多神教を尊重、キリスト教公認を改めたことから、キリスト教側からは背教者とされた。
ギリシア古典に通じ、ギリシア・ローマの文化伝統を復興。多様性を認め、宗教には寛容の立場をとったが、東方遠征に際し、在位2年足らずで戦死した。
新作は、すべて《ride off into the sunset》のタイトルにナンバリングがしてある。
1940×2606mmの大作《ride off into the sunset #1》は、右側は、ユリアヌスが東方遠征に向かった4世紀半ばのササン朝ペルシアのイメージで、時間軸は古代。砂漠のような空間がはるか遠くまで広がっている。
奥へ奥へと引き込む空間には、戦争やユリアヌス、ローマ教皇、あるいは多神教で捧げられた牛のイメージなどが点在している。
一方、画面左側は、行く手を阻むような壁が手前に迫り出した現代のイメージで、イスラムのタペストリーや、フランシス・ベーコンの《ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作》も引用されている。
異端を弾劾したインノケンティウス10世の宗教的権力者の威圧感、冷酷さがにじみ出るベラスケスの肖像画を再解釈したベーコンの作品である。
枢機卿や、窓から奥に広がる景色、幽霊のようにローマ皇帝像、土壁、十字架、ミサンガ、カーテン、あるいは、あえて画面に塗られた汚れのような絵具・・・。
さまざまなイメージの断片、空間、時間軸が、いくつものレイヤーが重なるように構成され、入れ子のような世界を組み立てている。
前述したベーコンの絵画に加え、サイ・トゥオンブリーの作品の引用があるのも興味深い。
ビスマルクの言葉に「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」があるが、柴田さんは、絵画を歴史の教訓にしたいわけではない。
歴史の表面的な出来事と意味をイラストにしたいわけではないから、世界と歴史を巡る多様なイメージ、空間、時間をポリフォニックに描いているのである。
つまり、現代の日本と関係のないようなイメージの数々が私たちとつながっていることを言いたいのである。
だからこそ、いくつものレイヤーで複雑に構成された絵画空間が、私たちに深く問い掛けてくるのである。
make-or-break 2020年
Gallery 芽楽(名古屋) 2020年8月22日〜9月13日
今回、作者は、歴史と現在をつなぎつつ、人間が個々の尊厳でなく、まるでタグを付けられた荷物のようにカウントされている状況を取り上げている。具体的には、ユダヤ人によって結成された交響楽団の名簿である古紙との出合いが制作の契機となっているようだ。
歴史的なユダヤ人迫害が、第二次世界大戦中には、ナチスによる最終的解決、すなわちホロコースト(大量虐殺)へと至る。今回の作品の多くでは、その名簿の筆跡を再現したようなタグが主要モチーフになっている。
《whereabouts of the signature》(2020年) は、そうした2点組みの大作。団旗のような大きな布が翻り、そこにサインの入ったタグが結えられている。風に翻る、あるいは静かになびく旗や布、リボンは、最近の柴田さんの作品によく登場するモチーフである。布は風になびくが、風はあくまで穏やかで吹き荒れることはない。
背後には、森のような風景のレイヤーもある。
そして、さらに印象的なのは、スケール感を変え、転写された点景のように描かれた、走る子供達や、遊ぶ子供達、あるいは、パラシュートで着地した人。これらも風を感じるイメージである。
他の作品で数多く描かれたモチーフには、ヨットがある。前回の個展では、草原を走る馬が描かれていた。いずれも、風に関係する。
舞う布、リボン、スカーフ、旗などに関わる風は、重いテーマを軽やかに描く、そして、重いテーマを希望へと反転させる形象、そうした寓意とも受け取れる。
大作《hope or capative #0》には、ユダヤ人のサインが書かれたタグとともに、魔除けの装飾品であるドリームキャッチャー、そして、捕らえられた鳥のイメージが印象に残る。
画面の真ん中付近には、2つのカーテンが、上方の区切られたエリアには、冬枯れの森が描かれ、水平方向に家も並んでいる。背景は、海とも曇り空とも解釈できるが、空あるいは海、森、家並み、カーテン、そしてドリームキャッチャーと野鳥、ユダヤ人のサインの入ったタグなど、多様な形象のレイヤーがスケール感を変えて、描かれているのである。
アメリカインディアンのオジブワ族に伝わる輪を基にした手作りの装飾品、ドリームキャッチャーは、蜘蛛の巣のような形態に鳥の羽などが付いた聖なる装飾品である。夢をふるいにかけ、悪夢を避け、良い夢を眠っている人の中に導き入れるとされる。
夢を変える力を持つと信じられたアメリカインディアンの魔除けだが、それが文化的に流用され、人間が都合のいい欲望をかなえるアクセサリーにもなった。対比的に野鳥が描かれているのは、野鳥が捕らえられ、その美しい羽が人間の欲望のために使われていることの寓意だろう。
今回の展覧会の副題《make-or-break》は、文化がもつそうした二面性を言っている。それは、前回の個展で展示された作品が、「pioneer」(開拓者)と「conqueror」(征服者)をテーマにしていたこととも重なる。つまり、文化や文明には、2面性がある。
柴田さんには、歴史や物事を相対的に見る目、「する側」だけでなく、「される側」から見る眼差しがある。それを軽やかに風になびく布や旗、リボンとして、重なる透明なレイヤーとして、穏やかに描いているのだ。
《calm sky 》の連作も、主要モチーフは、タグが付いた白布などでで、そこにヨット、ストライプなどのイメージのレイヤーが加えられた。
イメージの断片を版画出身らしく、透明フィルムのようなレイヤーとしてモンタージュするような作品は、一層洗練されている。
それぞれのレイヤーのイメージは透明感があって美しい。真摯に現実世界や歴史に向かい合ってもいる。全体の絵画空間に圧迫感がなく、むしろ、とても開放的である。
風にたなびく旗、布、スカーフ、リボン、駆け抜ける馬、子供達、静かに漂うヨット・・・。柴田さんの絵は、穏やかで、静かに吹く風は邪気を払い、幸福を希求する。両義的でありながら、彼女の絵画は希望の方を向いている。
例えば、民族的、人種的差別、欲望、破壊、歴史的悲劇、あるいはコロナ禍のような現代の課題。柴田さんはこれらに向き合い、リサーチし、そこからイメージを連鎖させ、レイヤーを多層的に重ねつつも、図式化はしない。
鑑賞する人がその絵画と自由に対峙できる空間、他者を受け入れる開放性と、希望へと吹き抜ける風を表現する。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)