Gallery 芽楽(名古屋) 2019年7月6〜21日
柴田さんは1979年、愛知県生まれ。名古屋芸大と同大学院をで版画などを学んだ。2020年、2021年の個展レビューはこちら。2022年の個展レビューはこちら。
2019年の個展タイトルが、「culture」の文字を斜めの棒線で消したデザインになっているのは、カルチャーすなわち文化の消失とでもいうのだろうか。
ある作品では、画面上部に雪の山岳風景が連なり、オーバーラップ気味に旗がたなびく。その下の高原らしき景色には騎馬や遊牧民の移動式住居の点景。それらの下に配されたのが、どっしりとした巨大な工場施設だ。チベットを題材にしているらしいので、高原はチベット高原、峰々はヒマラヤだろうか。それぞれの要素は、画面の中で一定の統一感を保ちつつ、各イメージの距離感やスケールは現実的なものではない。全体はただの網膜的なイメージというわけではなく、どの要素が再現的なものなのか、どこかから引用したのかなど定かではないものの、各イメージが合成された絵画空間は美しくも静かな緊張感をたたえている。
個展のタイトルに照らせば、中国政府による文化的弾圧、マイノリティや先住民族の文化の喪失がテーマになっていると言えそうだ。画面上部の雄大な自然と高原で暮らす遊牧民の文化に対し、画面下の工場は、それを侵食する政治支配や国家資本主義、グローバル経済、あるいは形に現れない別の潜勢力をもほのめかしている。あるリージョンを巡る支配は、一方から見れば正当な拡大と発展、安全保障であっても、侵略を受ける側からすれば地域の文化の略奪と同質化、文化の混交であり、かつての植民地主義、帝国主義はもとより、それ以前、それ以降も、政治、経済、歴史上の征服、支配、文化の簒奪として、北米、南米、アジアやアフリカ、オセアニアや島嶼に至るまで、世界のあらゆる地域で進んだ。
柴田さんの作品の一端は、まずこうしたナラティブな具象性にあり、それぞれの断片的イメージは一つの物語に単純に回収されことは避けながらフォトモンタージュのように共存している。例えば、2013年にVOCA展奨励賞を受け、東京の第一生命ギャラリーで展示された一対の大作は、まさに開拓者と征服者をモチーフにしている。青く塗られた作品「pioneer」(開拓者)と、赤く塗られたもう一方の「conqueror」(征服者)は、森や壮大な自然、旗を立てた開拓者=征服者らしきシルエットや手仕事に携わる先住民、山火事などが合成され、それらのイメージと色の対比から、表裏の関係にあることが分かる。多くの作品で、山脈や平原、森林、あるいは馬に乗った人や、リボンなど生活や文化のイメージに対し、地域や民族、文化に差し迫る軋轢と脅威が意識させされる。
注目されるのは、こうしたイメージの断片を薄い皮膜のレイヤーのように共存させ、一部は多重露光をした作品のように重ねているところだ。VOCA展出品の頃から固まってきたという現在のスタイルでは、雄大な自然や気候風土、土地固有の民族文化を象徴するイメージが、それを支配、同質化させる力を想起させるイメージの侵食を受け、それらの多様なレイヤーの拮抗によって、支配される側の歴史観への共感へと誘う余韻を孕んでいる。
地の部分も図の部分も薄塗りでテクスチャーは乏しく、色彩は全体に柔らかく透明度が高い。版画出身者らしく、雪の連峰などでイメージをステンシルで転写したかのような技法も含まれる。各イメージが透明、半透明なフィルムを貼り付けたかのようで、なおかつ抑制が効いているのも特徴。こうした技法は、図式的な物語に回収して主題を声高に主張することを回避させている。部分的に三次元的イリュージョンを取り入れつつ、全体は平面的なでフィルムを重ねてずらしたかのような非実体的な絵画空間にしているのだ。
現実に即したテーマで描く一方、それを安易に図式化せず、作品の下部に絵の具が流れ落ちる部分をあえて作るなど、平面性、絵画性の指標を用意しているのにも、したたかさを感じる。別の作品で、あえてイメージに介入するように絵の具を汚れのように擦り付け、イメージを剥がした痕跡のように見せているのも、絵画であること、平面であることを強く意識させる。
異質なイメージの共存によって、重層化された別々の中立的なレイヤーを出現させ、こうしたレイヤー(皮膜)の重なりによって絵画空間を成り立たせていることによって、ナラティブな意味体系の予兆を感じさせつつも、各要素の緩やかな関係のハイブリッド化は、それを単純化させない。そうした自由さ、その先を見る者に委ねるしなやかさは心地よく、感性を縛ることがない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)