ギャラリーアートグラフ(名古屋) 2019年9月7日〜10月14日
日本の美術界は分断された社会で成り立っていた。以前、筆者が新聞の美術記者をしていた1990年代は、東海地方では公募団体が依然として力をもち、毎年2月ごろに開かれる日展は多くの観客を集めた。二科会や独立美術協会、二紀会、白日会、春陽会など、日本画なら日展以外にも院展、創画会などがあって、閉じた団体としての役割を機能させていた。筆者は、名古屋で公募団体の展覧会に毎週、足を運んでいた最後の新聞記者だったが、取材の中心は、画廊での現代美術だった。信じられないだろうが、1990年代においてさえ、各団体は日展への対抗心を持っていたし、個人で活動していた美術家の中には公募団体への敵意を持つ人がいた。でも、いつの時代も、そうした団体の中にもユニークな人はいるものである。
ここで取り上げる名古屋市緑区在住、1954年生まれの松岡恵子さんは、主婦作家というのか、目立たぬ環境の中で制作している。美術を学んだのは、50代半ばごろからで(それまでも、育児中から、いろいろやっていたようではあるが)、2013年に、京都造形芸術大の通信教育部を卒業した。2011年から、日本版画協会で入選を重ね、それ以外の各種公募展でも入選・入賞。2017年には、第7回山本鼎版画大賞展で大賞を受けた。技法はアクアチントが中心で、ザリガニやバッタなどが主要モチーフである。
作品は、銅版画としてはかなり大きく、ザリガニやワタリガニ、バッタなどの体が画面からはみ出すような構図に迫力があり、そのエネルギー、衝動はとても松岡さんの経歴や、制作時の年齢からは想像できない。大胆な構図は画面に歪みを生じさせるギリギリの手前でとどまっている感さえある。
特に頭部やハサミ、触覚類を大きくし、中でも隆起するように表現された目は異様である。甲殻類、昆虫の体を巨大化させているだけに、どことなくメカニカルな印象も受け、それが劇画調、アニメーションの原画を連想させたりもする。こうしたフォルムの面白さ、動感、大きさは、女性作家とは思えない力技で、見ているだけで開放的な気持ちになる。画面の中にいるイメージが前に飛び出しくるような迫真の動きである。それと一体化して、重量感として訴求してくるべっとりとした質感も作品の要になっている。
とりわけ頭部の大きさと、破格に強調された目は、この作家の内なる意識を反映している。肥大化した目は、レンズのようにこの世界を映しているが、そこに何が描かれいているかは明瞭ではない。小さな生き物から見た環境破壊という見方もできるが、目に映った世界の破壊、混沌は、作品を見る人の意識と反響しあい、さまざまに増幅されるであろう。ザリガニやバッタは、子供時代に捕獲する対象だったが、大人になるにつれ、取るに足らない存在、意識に上らない、場合によっては醜悪な存在になっていく。そうした目から、この世界は、どう見えるのだろう。
松岡さんは、このシリーズを2011年の東日本大震災以後に始めたという。海の中、陸の生き物から見た世界とな何か。自由な鑑賞を許されるならば、この世のディストピアではないだろうか。環境破壊と荒れ果てた、あるいは荒涼とした土地、無明に囚われた人々、経済格差と対立が進み、底辺で生きる人間の息苦しさ、人々の心に浸潤する憎しみと退廃。
版画の実作者は、技法的な探求とマチエールなど画面に現れる効果を丹念に研究する。ただ、技法と表現の関係が製作者の内的関係において核となるのは強調してしすぎることはないにしても、筆者のような一介の鑑賞者からすると、作品の全体性から受ける訴求力の方に引き寄せられることもまた事実である。
松岡さんの描くザリガニは、迫力に満ちた存在である一方、攻撃的なわけではなく、どこかだらりと脱力した雰囲気、大きな醜い体を持て余したそぶりで、それゆえにユーモアを漂わせている。重機によって、いとも簡単に自然を破壊できる人間と比べ、はるかに弱い存在であるがゆえに冷徹に世界を観察し、それを目に映している、弱く、優しい目を持った存在である。私たちがこの作品を見るとき、これらのザリガニに見返されているのが分かる。ザリガニは、私たちを見る存在だが、同時に無明の私たち自身でもあるのではないか。この世界を見ることを忘れている私たちに見ることを促す作品でもある。