越後谷卓司(愛知県美術館主任学芸員)
フレデリック・ワイズマンの映画は、現場の状況や人物紹介など、字幕やナレーションを使って説明することは一切ない。それは本作でも同様で、基本的な姿勢が堅固に貫かれている。映画の前半はニューヨーク市街の風景と、図書館内で行われている講演やトーク、会議等の様子を交互に繰り返してゆく。ニューヨーク公共図書館は多くの分館があり、風景ショットはそれら設置されている場所や環境を示すとともに、複数の分館を次々に紹介してゆく際の、場面転換的な役割を担う、映画文法上の役割も兼ね備えている(ほぼ全てのショットがフィックスで構成された、小津安二郎の映画での、空ショットや風景ショットの使い方を思い出してほしい)。これもワイズマン映画の一貫したスタイルといえる。
図書館のドキュメンタリーと聞いて思い浮かべがちな、我々利用者が普段目にすることのない閉架書庫内での作業とか、保存修復上の処置といった舞台裏は、後半に入ってようやく描かれるが、三シークエンスのみと少ない。一つは返却されたのか、あるいは貸し出しで他館に送られるのかする図書を、ベルトコンベアーのような機械の空いたスペースに、作業員が手作業でポンポンと置いてゆく場面。仕分け自体は機械が行うため本当に単純作業で、有り体にいうと本の扱いがひどく雑な感じがした。二つ目は青色のプラスチックケースに紙を挟んで袋に投げ込んでゆく、これも見た限りでは単純作業と思しきもの。
見た目で判断するのは良くないと思うが、前者は低所得者層といった感じの身なりで、ヘッドフォンを付けて作業する者も写されている。音楽でも聴かなければやっていられない、退屈な仕事なのだろうか。後者は車椅子の身体障がい者が作業していた。ハンディキャップのある人に雇用機会を提供する意図があるのかもしれない。
映画では多くの分館が登場し、ニューヨーク公共図書館が一体どれだけの館から構成されているか、つかみ切れない。こうした描写から、この組織の巨大さを想起させもするのだが、その中でも重要視されていたのは、黒人文化研究図書館であることは、その登場の頻度から明らかだろう。特に終盤の地元の住民たちの話し合いのシーンで、はっきり目に見えない形での差別(例えば、卸値をつり上げられて廃業に追い込まれた黒人経営者の店が多くある、といった指摘)が語られてゆく。アメリカ社会にこうした側面が存在することを、あえて見せてしまう。それが、『ニューヨーク公共図書館』と題した映画の、隠しテーマの一つなのだろうか。
先ほど述べた三つのバックヤード作業の最後のものは、図書をデジタルカメラで複写する場面である。スキャナーのガラス面に本を押し付けて読み取る、といったことはしない。昔ながらの複写台を使い、上方に据え付けたカメラで撮影してゆくのだ。新聞を広げたサイズでも一回で撮影できる、といった合理性もあるが、何より資料の扱いが丁寧だ。おそらく彼らは司書等の専門職だと思うが、前述の仕分け作業者との対称性はどうだろう。ワイズマンの意図はともかく、格差社会の一断面が透けてみえる。
貴重書の撮影/複写も、言ってみればデジタル化の一環といえるが、もう一つの隠しテーマは電子書籍やネット環境への対応だろう。電子書籍は「E-Book」と呼ばれていたが、その利用率は300%の伸びであるという(その一方で、紙の本が「フィジカル」と呼ばれていたのが面白い)。しかしながら、ネット環境にアクセス出来ない住民も1/3程度存在し、彼らへの「パソコン入門講座」といった催しも行われている。ネットに容易にアクセス出来ない状況を「デジタル・ダーク」と呼称していたが、そうした人々のセーフティネットとしての役割も、図書館が担っているのである。
図書館員たちの会議で、未来のあるべき図書館の姿とは何か、話し合う場面もあるが、それが何か映画では結論まで描写しない(実際の会議でも、結論は見出せなかった可能性もある)。ワイズマンもまた、一切の論評やコメントを付さない。それは我々一人一人が映画を見て、それぞれが熟考し、答を導き出してほしい、ということなのか。あるいは、そうすべきだというメッセージを、映画として体現しているのであろう。
(2019年8月9日、名古屋シネマテークにて鑑賞)