AIN SOPH DISPATCH(名古屋) 2019年5月25日〜6月8日
阿部さんと言えば、発泡バインダーで日常的な物を写し取り、表面や形態を立体コピーとして再現する作家という印象が強かった。
鷹野健さんとのユニットで、それを大型化し、家屋一軒を青焼きのような青っぽい被膜で複写し、剥がし取った大作もよく知られている。
今回、展示された一連の銅版画は一見、そうしたシリーズとは全く別のもののように感じられるが、いずれも、ほぼ同時期の2009年ごろから並行して制作され、相互に表裏といっていい関係にある。
発泡バインダーの作品は、日常的な物の表面を写し取って剥がすという手法ゆえに、物の表面と形態がリアルに転写され、それでいてどこか軟体動物の皮膚のような生々しい不気味さをたたえている。
いわば、剥がし取られることで無機的な物が皮膚のような表面に転生した居心地の悪さ、いわばメタモルフォーゼによるグロテスクな存在感がここにはある。
一方、今回展示された銅版画の連作も、ドローイングのような即興的な身振り、生々しい即物感をもつ。フィギュアはいずれも身体、あるいは体の一部をモチーフにしているように見え、そうしたイメージ群が縦列のマトリックス状に30点も展示されることで、見る者に変容するイメージを与えるのだ。
モーフィングのように、ある身体イメージから別の身体イメージへと滑らかに変容している動感があり、なんとも生っぽいのである。
もちろん、これらのフィギュアに性別、年齢、人種や民族、国籍、宗教などの属性はない。というより、これらは身体そのもの、身体らしきものであるにすぎず、また、そうであるからこそ意味が排除され、不確かで曖昧なフィギュア、変容する身体そのものがを抽出されているとも言える。
身体は、アーティストが取り組む最も典型的な題材のひとつであるが、例えば、フランシス・ベーコンのような奇態ともいうべき具象性はここにはなく、逆に身体の抽象性、もっと言えば、身体そのものというべきフィギュアが夾雑物なく印象付けられ、その強度はモノクロームによって一層強まっている。
もうひとつ、関心を持ったのは、マトリックス状に縦3点、横10点にきれいに並べているという展示の仕方である。
こうした展示で思い浮かぶのは、近代的な建築遺産を撮影したドイツの写真家の、あのベルント・ベッヒャーだろう。ベッヒャーにおいては、近代建築のタイポロジー、つまり類型化による同質性と差異性を抽出した方法が、ここでは、先にも述べた身体そのものの同質性とメタモルフォーゼの表現に貢献しているのである。
こうした「変容」という鍵語による共通点の一方で、両作品には、明らかな違いもある。発砲バインダーの作品が物の形態や表面を、外部から借りてきているのに対し、銅版画のフィギュアは、阿部さん自身の中から生み出されているということである。
つまり、向こうからやってくる既成の物の形に対し、今回の作品は、阿部さんの深奥から湧き上がってくる不定形、未確認の形なのである。
阿部さんによると、この不定形の人的フィギュアの源泉には、捨てられていた石膏像があり、それが自身の内面から浮上するイメージと融合しながら、変化する生命形態的な不定形のフィギュアとして、コピートナーを使った製版をはじめ様々な技法を駆使して生まれてくる。
銅版画の技法は数多いが、地道に時間をかけるというのではなく、瞬発力、即興性がこうした変容する身体、ぬめりのような生体感を付与しているように思う。だからこそ、ここでは形態のリアルさが問題なのではない。阿部さんの内から出てくる生っぽさが重要である。
阿部さんは、形を探っていく中で、ドキっとするイメージが出現するまで筆を動かせる。それは、阿部さん自身の体から即興的に生まれる、今まで出てこなかったフィギュアとの出合いでもある。
そうして、外からの形態と内なる形態の両方に取り組むからこそ、創作のアイデアが出てくるのだと阿部さんは言う。大量のドローイングを描いていた時期もあるというが、こうしたシンプルな作業の積み重ねが創造を生むのである。
版画の概念から立体やインスタレーションに展開したと見て取れる発砲バインダーの作品に対しても、阿部さんは「版画という感覚も立体という意識もない」と語る。
立体的な作品にも、オーソドックスの版画にも可能性を感じているという阿部さんが追究するのは、「イメージのレイヤー」「皮膜」という共通項のもとで、両者がよりドラマティックに出合うことなのかもしれない。それにしても、両者に共通するこの生々しい生態的な肌理は一体、何なのだろうか。