名古屋市民ギャラリー矢田(名古屋) 2020年1月9〜26日
ファン・デ・ナゴヤは、名古屋市文化振興事業団が1999年から継続する美術展。今回は、3つの企画展があった。愛知県立芸大の後藤あこさんと、山中奈津紀さんによる2人展「下手があるので、上手が知れる」(企画も2人)、他者とのコミュニケーションを絵に取り入れる、大阪芸大卒業、京都在住の垂谷知明さんの自主企画「コンステレーション/布置された星〜あなたとわたしの冒険譚〜」展、名古屋芸大などを卒業した14人が日常的な道具を使って作品を展示する「ここに在るということ」展である。今回は、このうち、後藤さんと山中さんの2人展について触れる。
2人は、4階第1展示室を二分し、大空間を十分に生かした展示を見せた。ともに愛知芸大の彫刻専攻である。
山中さんの作品「空からこぼれおちた海なみだの世界」は、レディ・メイドの日用品を組み合わせて展示し、それを大空間にバランスよく配置している。多くの日用品は、くすんで汚れが付着しているが、展示のために購入したものもあるようだ。それぞれは、いくつかにグルーピングされる。それらは個々の作品としても見られるし、空間全体を1つの世界として見ることもできる。
レディ・メイドといっても、個々の既製品のオブジェ性を強調しているわけではない。また、デュシャンのように既製品という範疇によって作品性を押し出しているのでもない。意味は排除されているが、ギャラリーのホワイトキューブの空間という制度によって成り立つ作品ではある。空間の使い方も、日用品の選択もうまい。展示は、とてもきれいに仕上がっている。
だが、山中さんが日用品を選ぶとき、その基準に彼女自身の見出す視覚的な価値、美意識が強くあるわけではない。むしろ、山中さんが意図しているのは関係性である。山中さんは、もの派の影響を受けている。もの派は、木や石、鉄などの自然的、中立的な素材をそのまま提示し、主客を超えた関係性を探求した。山中さんの作品も、いくつかの日用品が関係する、その日用品の名称や機能を超えた、あるがままの関係性の態様を提示する。周囲の空間を意識させる意味で、インスタレーションに近い見え方をするのも、故あってのことである。
赤いクーラーボックスが小さな鍋を下敷きにわずかに傾いている。水道の蛇口にペットボトルと、ひしゃげたアルミ缶がくっついている。畳の間に挟まった軍手やプチプチ(気泡緩衝剤)、懐かしい物干し台から吊るされた青いネット、ピンクの洗濯ロープで縛られた段ボールとその上のひっくり返った帽子等々。
置く、結ぶ、重ねる、吊るす、入れる、挟む、刺す、近づけるなど、最小限の行為で、山中さんは作品を構成する。人間の最小限の行為を反復し、そこにあるものとものとの出合い、関係性を導き出す。山中さんは、そこから浮かび上がる世界の美しさ、愛おしさ、はかなさを掬い上げている。普段は見逃している、気にも留めない美しさが訪れている。
他方、後藤さんの作品「おいかけっこ」は、ジャングルジム、鉄棒、鳩や女性、犬などの彫刻が空間に配され、物語性を感じさせる世界である。素材は、陶、木、アルミなどで、鉄棒やジャングルジムなどをはじめ、いずれも精巧。多くは灰色で、平面的に作られた女性などは白で塗られ、聞かなければ、外からは素材を窺い知れないものもある。例えば、空間の所々の床に置いてある鳩や、鉄棒に繋がれた犬は、紐作りで作られた陶製。リアルに再現してある。
後藤さんの作品では、全体が舞台装置のようなインスタレーションになっている一方で、個々の彫刻がしっかり作り上げられている。素材の使い方も自在である。そこには、たとえば、1980年代から90年代はじめにかけ、主に陶芸の側から現代美術に接近したクレイワークに見られたような素材にこだわった工芸的な造形意識は乏しく、むしろイメージや世界観から入って、現代美術の側から素材を相対的に使っている。その意味では、非常に器用であるし、素材や技法を自由に使いこなしている。現在、陶の現代アート的な作品を制作している人には、こうした傾向が強いようである。
後藤さんの作品は、こうした個々の彫刻の精緻な作りの物質感、素材のもつ現実感と、それぞれの具象性にまとわりつく虚構性、物語性のあわいで制作している。というより、その間を精妙なやり方で探っている。前述したとおり、素材が外から分かりにくく、ニュートラルな感じになるように無彩色で覆っていること、素材感を減じていることは、現実感を捨象しようとしているためだと思う。単体でもそうであろうが、平凡な都市公園という設定で物語が動き出すようなインスタレーションにすることで、虚構性は一気に高まる。彩色すれば、虚構性の方へふり切ってしまうので、それはしない。
逆に後藤さんが、個々の彫刻を1点1点丁寧に作り込むのは、それぞれの素材に応じた制作の理路を確認する作業でもある。その意味で、先ほど、陶芸家と比べると、素材と制作との関わりは乏しいと書いたが、後藤さんが陶なり木なりアルミなり素材の性質と自分の身体性を関わらせた制作の手触りは残っていて、それが物質的な現実感にもつながっている。
後藤さんは、このことを「本物のふりをした本物」として存在させると言っている。この「ふり」というところが大事で、演劇でいうところの「スタニスラフスキー・システム」(日本の新劇はこの方法論に因っている)のように、彫刻にそれらしく振舞わせる、ストーリーに乗っかってもらう。
あえて、彫刻を、スタニスラフスキー・システムの「役を生きる芸術」にしてみる(このアナロジーで言えば、ブレヒト的な異化は、「ミニマリズム」と言えばいいのだろうか?)。 たとえると、個々の彫刻は、役を生きること、演じるたびにその役の人物や動物と同じような感情、それにふさわしい背景であることが求められる。しかし、そちらに行きすぎない。素材や重力、形態に加工した痕跡が現実に引き戻す感触、余地を残しておく。その実験はまだ緒についたばかりだが、今後が楽しみである。