YEBISU ART LABO(名古屋) 2024年9月8日~10月27日
大東忍 DAITO Shinobu
大東忍さんは1993年、愛知県生まれ。愛知県立芸術大学美術学部油画専攻、同大学院美術研究科博士前期課程修了。
愛知県西尾市で2023年秋に開催された国際芸術祭地域展開事業「なめらかでないしぐさ 現代美術 in 西尾」では康全寺で大規模な襖絵を見せた。その後、「VOCA展2024」ではVOCA賞に選ばれた。
藪から藪へ From a Bush to Another
大東さんの作品は、パフォーマンスと絵画が一続きのプロセスになっている。ある風景の中で一人で盆踊りをし、それを撮影した写真をもとに木炭で描いている。作品を見ると、腰をひねって踊る作家自身が小さく描かれていて、それだけでも、思わず頬が緩むようなユニークさがある。
最近は一部に、人を入れていない作品もあるが、その場合でも、自ら盆踊りをするというプロセスは踏んでいる。
描くことが行為なのは当然として、その前段の作家自身のパフォーマンスが描くことの前提になっていること、そして、それが盆踊りという民俗的な方法であることが大東さんにとっては重要なのである。
大東さんが描く風景は、特徴がない、いわば特段の意味のない風景である。街灯のついた夜の路上、空き地、樹木や藪などで、通常は絵画のモチーフになるような場所ではない。
木炭の粒子が、複雑なこの世界を深い影とほのかににじむ光に還元しつつ、そこに、うつろいゆく儚さ、それでも作家自身が踊るその瞬間の確かさを浮かび上がらせるようにイメージが紡がれている。
何気ない場が量感と気配を伴っている。それは描写の技術的なこと以上に、作家本人が現場で踊っていることが大きく作用しているように思える。
つまり、大東さんの描く絵の対象である風景は、主体が、客体として分離した空間を対象化したものというより、身体と空間の一体化、感性と空間との交感の場なのである。
それを大東さんは、自らの制作が場所を供養することだという。盆踊りは、先祖の霊を迎え入れて供養する行為だが、そこからの発想で、場所、風景を「物語る」空間に変容させるのが、大東さんにとっての「踊る→描く」なのだ。
踊りは、そして、優れた芸術は此岸と彼岸、この世とあの世を結び、その境界を超える往還の感覚へと誘う。大東さんは、特別の場所ではない、旅先やレジデンスで関わった何気ない場所で踊ることで、その場所を引き受けるのではないだろうか。
引き受けるとは、場所の雰囲気、空気、密度、風景を体全体で感じることである。これは、瞑想と同じで、思考を止め、瞬間を生きないとできないことである。
自我が消え、自分と宇宙が一体化し、自分の内界と外界がつながって広がる。大東さんは、自分の踊りが「風景に近づく方法」だというが、それは、踊りによって、自分の身体が、自身と風景との関係性をつくる媒体となることでもある。
邪気を払い除き、鎮魂するために大地を踏みしめる芸能特有の反閇が盆踊りの芸態の基礎となったと考えられている。それは、大地との交感である。
脳の働きを既存のプログラムから宇宙へと解き放ち、身体を開くことで、風景に寄りそい、自らが依代になる。それは、森羅万象と結ばれ、生命の霊気と大地、宇宙を感じることに他ならない。
そう考えると、大東さんの作品が、木炭で描かれたモノトーンであることがとても重要なことがわかる。それは、いわば人間のアタマの解釈のない、ありのままの無色の世界、空の世界である。この暗がりと光の空間は、色彩(解釈、思考)を離れた、濁りのない、無我の宇宙なのである。
それは、沈黙の大地、自然、宇宙と人間とが、互いの深いところで呼応し合い、感応し合う関係性である。
大東さんが、藪の曖昧さ、奥行きと、その呼吸をするように変化し続ける在り方から、風景を考えたいというのは、まさに、風景を表面的な「飾り」でなく、無常の宇宙、はるか遠くから感じる実感として捉えたいということである。
会場には、「例えば灯台になること」と題された映像作品も出品されている。横浜の夜景の中で、自らの身体を灯台のように点灯させたパフォーマンスの記録である。
身体と風景の関係について、別のかたちでアプローチした試みである。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)