Gallery HAM(名古屋) 2022年7月16日〜8月27日
セシル アンドリュ
セシル・アンドリュさんは1956年、フランス生まれのアーティスト。荒川修作さんの研究を通じて、日本文化への関心を高め、日本へ留学。東京大で言語、美学を学んだ後、ソルボンヌ・パリ第一大学で人間科学芸術学博士号を修得している。
金沢市を拠点に、言葉、文字をテーマとした作品を展開している。ギャラリーハムの元代表、故・神野公男さんへのオマージュとなった2020年の個展、あるいは2021年の個展のレビューも参照してほしい。
今回の展示は、ギャラリー空間全体を使ったインスタレーションである。
立体、オブジェでなく、インスタレーションにすることで、訪れた人に空間の中で静思する体験をしてほしいとのセシルさんの考えがある。
物質としての文字の衰退と、それに伴う人間精神や身体性、感覚、ひいては人間が長い年月を経てはぐくんできた文明の危機をめぐる空間である。
Chambre d’amis(シャンブル ダミ)
インスタレーションでは、ギャラリーの壁をぐるりと覆うように網が巡らされ、1万5834個の名札が付けられている。鑑賞者は、膨大な名札の下がった網に囲まれた状態になる。
名札の1つ1つに、黒く塗りつぶしたような痕跡が付着している。フランス語の小さな辞書に収められた全単語の文字の線を画像編集ソフトPhotoshopで太くし、シールに印字。それを1つ1つ名札に貼っているが、文字が潰れて判読することはできない。
つまり、鑑賞者が、あたかも辞書の中に入ったようなインスタレーションであると同時に、その文字を読むことはできないのである。
一方、会場に置かれた瓶には、この辞書1冊分のページをシュレッダーにした紙片が詰められている。
タイトル《Chambre d’amis》(シャンブル・ダミ)は、 ベルギーのS.M.A.K. (ゲント市立現代美術館)が 1986年、館長のヤン・フート(ドクメンタ9チーフキュレーター)のキュレーションで開催した展覧会名から取っている。
シャンブル・ダミとは、来客用の部屋の意味である。この展覧会では、ゲント市内約50カ所の一般住宅を会場に、クリスチャン・ボルタンスキーや、ダニエル・ビュレンなど国際的に活躍するアーティストがサイト・スペシフィックな作品を制作した。
セシルさんは、この辞書の中のような部屋で、鑑賞者が来客として静かにたたずんでもらえるようにと考えているのだ。ちなみに、セシルさんは言葉遊びをしていて、amis に「網」を掛けている。
この空間は、人間が文字、言葉とともに生きてきた存在であること、言葉に囚われた存在であることを想起させる。
名札は4種類の色があり、名詞が赤、 動詞は青、形容詞は黄、その他は白というように、品詞によって色を変えている。
注目すべきは、名札は本来、名前、すなわち意味や概念を表すものだが、ここでは読むことができないということだ。文字が潰れ、言葉でなくなっている。言い換えると、意味を発現する前の文字そのもの、沈黙がここにはある。
セシルさんが問うているのは、意味、概念、解釈ではなく、沈黙としての文字そのものである。その意味で、この作品は、デジタル化によって 物質としての存在を失いつつある文字を主題に据えた近年の作品の延長上にある。
筆者は、文字の痕跡が網状につながれ、空間を囲むこのインスタレーション作品は、両義的だと感じている。
すなわち、辞書の中の文字の原初的な痕跡の中にいるともいえるし、逆に、相互につながっている網(ネット)に絡め取られたインターネット上の文字のアナロジーともいえるからである。
現代では、家にいるときはもちろん、電車に乗っているとき、歩いているときをはじめ、人々は始終、スマホを触り、大地を歩く足裏の触覚をはじめ、さまざまな身体性、感覚、生の実感を忘れているかのように、データの海に溺れている。
効率優先で、「今ここに生きている感覚」という基盤を失っている。意味と概念、解釈、抽象性、平準化された数字と統計の世界に埋没している。
デジタルデータに囲まれ、身体や精神さえもデータになっている世界観の中で、人間は孤独で希薄、不安定な存在になっている。
だからこそ、セシルさんは、文字そのものを問う。
普段、私たちは、文字に囲まれていることを意識しない。だが、この青い光に包まれたインスタレーションは、文字の痕跡以外、何もない空間である。
静かに感じる場である。
言葉の意味や概念、解釈ではなく、空の世界といってもいい、文字の沈黙が今、大切なのである。
抽象化、平準化、データ化された人間観から離れ、物質的で感覚的、フィジカルな時間を取り戻すためにこそ、立ち止まり、静思する深い時間が必要なのである。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)