Gallery HAM(名古屋) 2021年11月13日〜12月25日
セシル アンドリュ
セシル・アンドリュさんは1956年、フランス生まれ。
荒川修作の研究を通じて、日本文化への関心を高め、日本政府留学生として東京大で言語、美学を学んだ。1986年、ソルボンヌ・パリ第一大学人間科学芸術学博士号修得。
金沢市を拠点に制作。主なテーマは、言葉、文字である。2020年の個展「文字の痕跡をたどって」のレビューも参照してほしい。同展は、ギャラリーハムの元代表で、2020年に亡くなった神野公男さんへのオマージュにもなっていた。
今回も、一貫したテーマに沿って、2020年の個展で出品した作品と同様、文字、言語への思索を深めている。
とりわけ、急速なデジタル化によって、あらゆるものがデータになって物質から遠ざかる中、文字の危機を訴えている。
文字の痕跡や物質性、接触が失われことに伴い、人間精神や身体性、文化、生活が変容する中で、セシルさんの問題意識は文明への洞察へと深度を増している。
Cécile Andrieu /“AVEC CONTACT“ “WITH CONTACT“ Gallery HAM
鍵語となるのが「接触」。文化、文明を作ってきた文字の質感、触れるとは、どういうことなのかを問うている。
それは、前回の個展で展示されたインスタレーション「CHAMP/畑」が、「文字」の上を踏みしめることを前提としていたことにも通じる。
文字を記号、言葉を概念としてのみ扱う限りでは、現在の文化、文明に到達することはなかった。
今回の作品では、文字や言葉が物質として人々によって触れられることで人間の精神に貢献してきたことが強く意識される。
すべてがデジタルデータ化される中でこそ、そうした文字の物質的な痕跡に触れることが未来を考えることであると作品は静かに語りかけている。
インスタレーション作品「サバイバル」では、100個のメッシュベストが天井から吊り下げられている。
これらのベストには、保冷剤やカイロなどを入れて夏の暑さや冬の寒さを防ぐための内ポケットがついている。
セシルさんは、そこにシュレッダーで細かく裁断した日本語とフランス語の国語辞典の紙片を詰めている。
あたかも保冷剤やカイロが体温の平衡を保つように、物質としての文字を体に当てることで、精神のバランスをとってほしいと言っているようにも思える。
同時に、文字を肌身離さず持ち歩くことによって、文字を保護するという受け取り方もできるだろう。
物質的な文字ばかりか、最近、コンビニなどでもセルフレジの導入が進み、コミュニケーションを取ること自体が急速になくなっている事態ともパラレルである。
このインスタレーションの下に入ると、垂れ下がったベストを下から眺めることもできる。内側には、小さな空間が作られていて、そこに身をおくと、ベストに囲まれた状態になる。
自分1人になって、文字に触れるということ、文字の恩恵、文字と身体について瞑想する空間ともいえるだろう。
「文明の柱」は、一冊の国語辞典の各ページを短冊状に折って扁平な棒状にしたものを1本につないで、螺旋状に積み上げることで四角柱にしている。
文字は文明を支える柱である、との思いである。文字の途絶えることのない積層によって文明がつくられる。
文字の柱は1mほどの高さで終わっていて、未来の柱は、私たち自身が築き上げるものだということを暗示する。そして、柱の中は空洞である。
四隅に立てた鉄の棒が柱を支えるが、柱はわずかにゆがみ、揺らぎ、決して垂直に立つことはない。
非常にメタフォリカルな作品である。空洞は、文明が言語だけで成り立っているわけではないこと、すなわち、現実が概念だけのものでないことを指し示す。
文字や言葉は文明をつくったが、それだけで宇宙を語り尽くせるわけではないのである。
併せて、揺らぎ、ゆがむ柱のように、文明は確固としたものではなく、不安定で脆弱である。文字が物質でなくなれば、そもそも柱は存在しない。文明自体が空中楼閣のようなものとなるであろう。
この作品の近くにギャラリーの本物の柱が立ち、「文明の柱」と対比されるのが興味深い。
数十の細い鉄棒が壁に立てかけられ、そこに紙が巻いてある。紙の巻いてある場所までの高さはランダム。
横から見ると、棒グラフのようにも、支柱に巻きつきながら上がっていく蔓のようにも、あるいは植物の茎のようにも見える。
紙は、1冊分の国語辞典のページである。一番右が「あ」で始まるページ、次が「い」、そして「う」「え」・・・と五十音順に並んでいて、一番左は「ん」である。
つまり、紙の高さがある棒は、それだけ、その文字から始まる言葉が多いものである。
1つ1つのページがビーズのように連なっていて、それが積層されることが、成長する植物のメタファーになっている。
文明は文字によって進歩したが、今や、その文字は非物質化している。
言葉は存在しえるのか、文化は成長しうるのか、あるいは朽ちるのか、消滅するのか、そして人間性は、知性は―。
「墓地」は、正方形の鉄板の上に縦横20×20のシャープペンの芯400本がグリッド状に立っている作品である。
シンプルでモノクロームながら、とても繊細で美しい作品である。
デジタル時代には、手を動かして文字を書くこと自体が減り、鉛筆やシャープペンなど黒鉛の芯が使われなくなっている。この作品が「墓地」だとすれば、1つ1つの芯は墓標である。
すぐに折れてしまう芯の脆弱さは、そのまま文字や、書かれた言葉の運命、すなわちエクリチュールの死を暗示しているようでさえある。
「ダンベル」と題された連作は、微細な文字形パスタを型取りして固め、黒く着色したダンベル型の立体である。
ダンベルが赤いベルベット製のクッションに置かれ、宝石のように丁重に扱われているのは、書籍や新聞、手紙など、物質としての文字が粗末にされていることへのアイロニーでもある。
握って上下に動かすことで体を鍛えるダンベルのように、これらの文字による塊も、握られること、すなわち人間にとって触れられ、使われることを待っているようである。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)