Gallery HAM(名古屋) 2020年10月10日〜11月21日
神野公男さんへのオマージュ
セシル・アンドリュさんは、1956年、フランス生まれ。造形美術修士論文のテーマにした荒川修作の作品を通じて、日本文化に興味を持ち、日本政府留学生として東京大で言語、美学を学んだ。1986年、ソルボンヌ・パリ第一大学人間科学芸術学博士号修得。
金沢市を拠点に、一貫した制作を続ける女性アーティストである。
テーマは、言葉、文字の痕跡、物質性。筆者は、1990年代半ばから、ギャラリーハムで見る機会を持っているが、言葉、文字をテーマとする制作の姿勢は、一貫している。
現在は、以前と比べると、言葉から文字へ、テーマの比重が移っている傾向が見られる。
インターネットの興隆の中で、あらゆるものがデータ化される時代において、文字の痕跡、物質性から、人間の置かれている状況と人間存在の混迷を捉える作品は、よりリアリティーを持つようになったと言えるだろう。
セシルさんは、2020年4月に亡くなったギャラリーハムの元代表、神野公男さんへのオマージュとして、この個展を位置付けている。
作品は、すべて未発表の新作である。
2021年の個展レビューも参照。
セシルさん×鷲田めるろさんの対談
2020年11月7日には、セシル・ アンドリュさんと、十和田市現代美術館(青森県)の館長、鷲田めるろさんのギャラリートークが催された。
この記事では、このときの取材を基に、できる限り2人の対話からセシルさんの作品世界を紹介する。
セシルさんのステートメントによると、根本にあるのは、言葉は実体のない観念、無であるが、書かれた文字、印刷された文字には痕跡がある、ということ。それは、安定性、永続性をもち、私たち人間の存在感覚を刺激する。セシルさんは、そうした文字を「宝石」と考えている。
つまり、文字は言葉をつくり、コミュニケーションの道具となるが、セシルさんが関心を寄せるのは、言葉によるメッセージや意味ではなく、生命のような文字そのもの、むしろ沈黙なのだ。
しかし、デジタル時代においては、生命としての文字はデータとしてモニター画面を流れ、現れては消える。文字は、短命、希薄で、不安定になって、彷徨っているのだ。
生気を失った文字、言葉を、セシルさんは、人間への驚異と考える。人間は、大切なものを失いつつある。
セシルさんの作品で、文字、言葉が物質化されているのは、失われた文字の復活のためなのである。沈黙たる文字の痕跡、物質のエネルギーの再生である。
CHAMP/畑
現在のギャラリーハムの空間は、一部が数段の階段で下がっている。その床に矩形に置かれた作品が「CHAMP/畑」である。タイトルは、フィールド、畑を意味するフランス語である。
3メートル四方に置かれた作品はグリッド構造になり、その中に、おびただしい鉛活字がある。グリッド構造は、セシルさんの他の作品でも見られ、日本では、原稿用紙のアナロジーとしても見ることができる。
鉛活字は、文字面や記号面を金づちで潰し、種を植えるようにグリッドの区画ごとに敷き詰められた。 まるで畑のように。 文字や言葉の意味、データでなく、痕跡、物質性、存在性を重視していることが分かる。
それは、まだ文字が生まれる前、言葉が紡がれる前の沈黙の時間、生命の誕生までの待機の時間。
鉛活字は、セシルさんが20年以上前に入手したものである。
グリッドに分ける仕切りの部分は、もみ殻の灰である。硬い鉛活字に対し、柔らかいもみ殻の灰が対比的に置かれ、人間をはぐくむフィールドのアナロジーになっている。
すなわち、言葉によって文明を生み出す文字という種子と、人間の命を支える農のイメージが合わさったフィールドがここにはある。鉛活字は、長く実際に使われてきたものとして、人間の生の営み、歴史をもほのめかす。
上を歩くこともできる。地面と一体化した作品だとも言えるだろう。歩くと、鉛活字の硬さ、文字の重さが足の裏に伝わる。鑑賞者もまた、大地を感じるのである。
上に乗ることが想定された作品について、鷲田さんからは、ミニマル・アートの作家であるカール・アンドレが参照された。
離れて見る美術作品ではなく、上に乗って、腰を落として鉛活字を間近に見る、鑑賞者が作品に関わる、鑑賞者の身体も作品に含めることが考えられている。
また、踏むことに伴う物理的変化や、そうした変化が連続していく時間性も作品の一部になっていると考えられる。
EMPREINTE/足跡
インスタレーション作品から段差を上がった場所には、鉛活字が足形を形作っている。
セシルさんによると、どの季節もサンダルを履いていた神野さんの存在の象徴でもある。この位置から、作品「CHAMP/畑」を見ているイメージになっているのだ。
興味深いのは、こちらの鉛活字は金槌で叩いていない。つまり、よく見ると、活字の部分の凹凸がしっかり確認できる。
MÉMORIAL/記念碑
階段状になった籠に、シュレッダーにかけた辞書のページの断片が詰められ、壁は、その辞書片が崩壊するのを防ぐ擁壁のようになっている。
辞書は、さまざまな言語のものが含まれ、1ページずつシュレッダーにかけられた。
人間は、生まれてから文字を覚え、言葉を通じて世界を認識する。知識を得て、成長し、困難を克服する。階段は、そんな人間の成長を示唆している。
だが、インターネットの世界で、希薄化した文字は、崩壊しようとしている。ケージのような擁壁は、それをなんとか食い止めている。
ささやかなケージは、人間を成長させる辞書の階段を維持し、文字を、言葉を守っているかのようだ。
JOYAU/宝石
辞書のページを剥がし、シュレッダーにかけて潰し、接着剤とともにレンズ形に固めた。石のように見えるが、中は空洞である。
虫眼鏡で見ると、辞書に書かれていた小さな文字が見える。表面は、グラファイトで処理されているため、光沢がある。
固めては磨き、固めては磨く。堆積岩が長い年月で作られたように、この作品も時間の経過を感じさせる。
壁に4カ所の爪で固定され、さながら宝石である。
そして、宝石に似ているというのは見た目だけではない。セシルさんにとって、文字、言葉は宝石のような存在なのだ。
すなわち、現代において、物質としての文字が消えつつある中、文字は、宝石のように守るべき対象である。
フランス、米国の作家で、文芸批評家、哲学者のジョージ・スタイナーが著書「言語と沈黙―言語・文学・非人間的なるものについて」の中で言う「ことばからの撤退」、言い換えると、文字や言葉の存在性が縮小する事態を、セシルさんは、「宝石」として記録しているのだ。
セシルさんによると、光沢のある円形の作品には、見る人が自分の存在を映す鏡のイメージも託されている。
文字の痕跡は、セシルさんにとって、鏡のように、自分の存在を映すもの、自分を見つめ、確認するものである。
AU CREUX DE LA MAIN/手のひらに(A.B)
「CHAMP/畑」を挟んで、2つが向かい合うように展示された「AU CREUX DE LA MAIN/手のひらに」は、文字形のパスタを透明メディウムとともに両手で握りしめ、赤インクで着色した。
セシルさんの肉体と精神の痕跡であるとともに、反作用として、セシルさんに働きかけるものである。
1994年、セシルさんが最初にギャラリーハムで開いたときの作品の改作だという。
文字形のパスタは、フランスでよく販売されている。ここでも、文字が物質として扱われている。
セシルさんの作品はモノトーンが多いが、この作品は赤色が印象的である。ギャラリーハムのロゴマークの赤いカエルの象徴であり、神野さんへのオマージュにもなっている。
赤いカエルが向き合うように飾られ、物質として守りたい文字と神野さんが始めたギャラリーハムが重ねられている。
セシルさんは、この作品をお守りのようなものだと語った。
ARDOISE/石盤
石盤は、原稿用紙のようにグリッドに仕切られ、それぞれのグリッドの内側は、丁寧に鉛筆で塗り潰されている。
サイズは、ちょうど、タブレット端末ほど。テキストデータとしての希薄な文字が流れては消えるタブレットではなく、セシルさんは、物質にこだわる。
石という素材は、作品「JOYAU/宝石」とも通じる。グリッドが鉛筆で塗られ、光沢があるのは、鏡のイメージにも重なる。
シンプルな作品だが、光の反射によって見え方が変化し、美しい。
セシルさんは、フランスの戦後を代表する詩人、フランシス・ポンジュの「待つ石」「謙虚な媒体」という言葉を想起する。
鉛筆で塗られることで、逆説的に、消される文字の存在感、文字の大切さを思い出させる作品である。
コロナ禍の中、アトリエでなく、狭い自宅でも制作できたという。
AU PIED DU MUR/壁の壁(プロトタイプ)
苗床用の紙製ポットのそれぞれの枠に、フランス語の辞書を1ページずつ丸めて埋め込んだ作品。それぞれの球体は、種子のようである。
その意味で、鉛活字を床面に畑のように敷き詰めた「CHAMP/畑」と関連づけられる作品である。
今回は、プロトタイプのみの展示。パリのアトリエで制作したインスタレーションは、壁全体に展開させている。
人間は、文字、言葉を通じて、世界を認識する。その文字を崩壊から守る階段状の擁壁構造によって、「MÉMORIAL/記念碑」が暗示した通り、人間は、文字によって知識を得て、成長し、進化する。
だが、世界を分節化し、固定化された概念で縛る言葉は、万能ではない――。
言葉が電脳空間の中を流れては消える現代において、セシルさんは、言葉を守るため、文字の痕跡、物質性をたどりつつも、そんな問題意識をもつ。
文字、言葉は、人間を知的進化に向かわせる生命であると同時に、現実から私たちを隔て、自由を奪う壁にもなりうる。
この作品は、そんな可能性と不可能性のせめぎあう壁である。
両義性をたたえた文字と言葉。
私たちは、セシルさんがかつて、イタリアの小説家、イタロ・カルヴィーノの言葉として引用した「言葉のかさぶた」を溶かし、生き生きとした生命体としての沈黙の文字の痕跡から、自身と世界のリアリティーに近づく問いを発し続けるしかない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)